Back Ground(背景)


 60年代末から70年代の日本の芸術状況を語る上で、欠かすことのできないのは、「アメリカ」の影です。ベトナム反戦を契機としたアメリカ社会の大きな変動が、世界中の若者を揺すぶり、日本も湧きたっていきます。学生運動としての全共闘、そこから生まれるゲリラ闘争は世界にリンクしています。音楽ではフォークそしてロック、美術の世界ではアンディ・ウオーホル、映画ではメカスやアンガーが主導した実験映画の影響を除いて、日本の音楽シーンなどの芸術分野を語ることはできません。また、一方で「同時代性」も強くあります。演劇の世界では、アメリカの60年代から始まる前衛劇団リビング・シアターによるオフ・ブロードウエイ、その後のオフオフ・ブロードウエイ、ヨーロッパのベケットやイヨネスコの不条理演劇と我が国のアングラ、あるいはフリー・ジャズの勃興など同時多発的に起きていく芸術運動もあります。先進国で同時多発的に起きる若者による変革=スチューデント・パワーは互いに刺激し合い、高揚していくのです。
 政治の季節を語る方々は1968年を強調されことが多くあります。これはヨーロッパ史観と言って良いです。ヨーロッパ、中でもフランスのパリ5月革命を中心とした感覚で、以降、ポストモダンに入ったという理解だからです。ただ、同時代に生きた人間からすると、確かに68年にもいろいろはあったけれど、67年や69年にもいろいろあったし、68年で切り裂かれる感覚は、私やその周辺には、10年経った後でもなかった。むしろ四半世紀も経ってから、ヨーロッパから入ってきた時代感覚ではないかと思います。肝心要のアメリカも68年で時代が分かれるというのはないのではないでしょうか。このページでパリ5月革命を取り上げないのも、ヨーロッパは遠くてよく分からなかったこと、中国の文化大革命の方の衝撃が大きかった。それもマスコミの情報は限定されていましたから、68年が衝撃としてあったという感覚はありません。時代を総括するのに68年を取り上げるというのは、私からすると違う、という感じを思います。

 もう一つのキーワードは「
新宿」です。渋谷にはまだ、PARCOはできておりません。 文化の発信はこの時代は無理です。池袋は田舎でした。 銀座はエスタブリッシュメントの世界でした。若者が新宿に集結したのです。

 時代は大きく2つに分かれます。前半は過激派による政治闘争の時代です。 1972年連合赤軍事件を契機として政治闘争の夢は敗れます。政治運動は以降、その頃、社会の表面に露わになる公害闘争に移っていきます。 政治化された芸術運動は、政治を離脱して革命の芸術、芸術の革命としての立場を強めていきますが、80年の頃には次第に衝撃力を喪い、ある部分はTVを中心としたマスコミに取り込まれ、ある部分は排斥され、前衛を続けることの困難さからマンネリ化し、大きな曲がり角を迎えます。このHPはそこまでは到達しません。

 日本の独自性は、明治以来、続いてきた欧米のコピーから、強度にユニークなものが出現してきたことです。

 Back Groud では政治に絞って、ここでは提示します。内容はよく知られていることなので、画像のみを提供します。 この時代、既存のシステム、体制を打破しようという形の一体感、高揚は、当時、10代半ばから20代後半まで幅広く共有され、国際的な広がりを持って共感・共鳴しあったのです。 問題は日本に関係ない話題、ベトナム戦争にしろ、中国の文化大革命にしろ、何故、若者達が強く反応し、激しい運動が展開されたのかということがあります。 欧米でも我が国でも高度成長が終わり、戦後生まれの団塊の世代が社会に向かい合う時に起きた、戦後のヒューマニズム、左翼思想に染まった若者達に起きたことです。 先進国以外では、ほとんど関係なかったこと、社会主義国では起きなかったことが、何かを暗示しています。

 しかし、この時代、我が国は豊かにはなってはきていても、まだ、本当の豊かさではありません。 マクドナルドが銀座三越にオープンするのは1971年です。乗用車が普及し始めるのも70年代の末からです。 海外旅行は庶民には夢の世界でした。豊かさへの直前に起きたことだったのです。 この闘争に参加した団塊の世代は、大学卒業後は猛烈社員として、グローバルに広がる我が国の企業を支え世界中で働き、マイホームを郊外に建設し、やがてバブルにまで達する強度の豊かさに導くのです。闘争で問われたものは、泡のように消えたのです。


ベトナム戦争

現代戦争の残酷性が世界に発信され、強者であるアメリカへの非難と、膨れ上がる戦死者によりアメリカ国内での反戦運動が激しさを増していきます。アメリカは小国ベトナムによって、史上初の敗北に見舞われ、アメリカ社会そのものに大きな衝撃をもたらしたのです。

 ベトナム戦争の激化は国内にもさまざまな波紋が広がります。病院にはベトナムの傷病兵が運ばれ、航空ガソリンの輸送、戦車輸送も行われ、それに敏感に反応するべ平連や全共闘の学生達がデモや火炎瓶で妨害、闘争を繰り広げます。まぁ、効果があったとは言えませんが・・・。

中国・文化大革命
毛沢東による権力闘争であった文化大革命でしたが、当時はそのようには考えられず、永久革命の夢として捕えられたことです。中国の若者達が紅衛兵を名乗り、既成の権力者達を追い詰めていく姿が、強い共感を呼び起こしたのです。それは全世界に広がったベトナム反戦運動にもつながった感覚であり、中国独自の政治問題とは考えられなかったのです。それが毛沢東の勝利に結びついていたのだと思います。

文化大革命(瘋狂記實)http://www.youtube.com/watch?v=p63xt5AlahY
壁新聞 毎日新聞



日本:全共闘運動
70年の第二次日米安全保障条約の改定を目の前にして左派勢力は第一次日米安全保障条約の改定時と同じ盛り上がりを期待します。 しかし、高度成長期を経て労働者は保守化が進み、もはや闘争の最前線であることは不可能でした。そこで学生運動が注目されます。 学生は進学率の上昇で大学生が膨れ上がり、大学側のマンモス教育に不満が溜まっていました。 旧態依然たる左翼思想を超える都市型の革命的な左翼思想が登場し、過激派によって主導する全共闘運動がスタートします。 大学の学費値上げを契機とした大学紛争が勃発し、次第にその闘争スタイルは過激化していきます。 初期には普通のストライキだったものが、やがてヘルメットと角材が登場し、火炎瓶が投擲され機動隊と激しく闘う形に変容していきます。
国際反戦デー新宿騒乱 1968http://www.youtube.com/v/mnrgvmxEkdQ&hl=ja

新宿東口駅前日大

その頂点に立つのが東大安田講堂に立てこもる全共闘と機動隊との紛争です。微温的な解決を求めた大学当局も機動隊の導入を決め、以降、大学に警官隊が導入されるのが当然視されるようになったのです。 以降、警察の激しい弾圧の下に、全共闘運動は内部分裂を起こし、過激派内部、中でも中核派と革マル派の内ゲバにより、双方合わせて100名近い死者と数千人に及ぶ負傷者(廃人同様も多数)が出ます。 内ゲバを繰り返すことで、急速に自壊していきます。

全共闘安田講堂攻防戦 1969




写真は朝日ジャーナル

写真は渡辺眸
 数多くの事件が頻発します。作家三島由紀夫による自衛隊への進入とアジ演説、切腹という最期。そして左翼もまた焦燥の中にあって、パレスチナ・ゲリラの手法を模倣したハイジャック事件や、丸の内での爆破事件、資金調達のための強盗事件などを引き起こしながら、過激さを増すと共に、追い詰められていきます。
三島事件                     よど号ハイジャック事件
              

そして最後に連合赤軍事件を起こすことで実質的な左翼による過激な闘争は終焉するのです。

連合赤軍事件
新左翼運動の実質的な崩壊を招いた事件で、1971年8月から72年2月にかけて、組織を抜けた仲間2人を絞殺したほか群馬県・榛名山などの山岳アジトでの“総括”と称するリンチで仲間11人を殺害、1人を死亡させるなどした後、森恒夫、永田洋子、坂口弘など5名で、あさま山荘に立て籠もり銃撃戦を展開します。銃撃戦の後に供述から分かったリンチ殺人は、単に化粧が濃い、洋服が派手などの理由で仲間を殺した無惨さ、おぞましさ、教条主義的硬直性からの殺人に、新左翼への心情的な賛同者を完全に喪うことになりました。この後も、東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件(74〜75年)、ダッカ日航機ハイジャック事件(77年)などや、長く続く成田闘争がありますが、大衆の共感を得ることは不可能になり、過激化していく闘争と警察側の激しい弾圧との攻防戦に埋もれていくことになります。

あさま山荘事件


死体が埋められた穴を撮影する報道陣

三菱重工爆破事件
 74年8月に起きた無差別テロ。爆風によってビルのガラスが粉々になって落下し通行人を直撃します。死者8人負傷者376人を出す惨事になり、この事件もまた、過激派への庶民の支持を大きく下げる一端になりました。
毎日新聞


 全共闘運動が下火になってきた時、抗議活動の対象が変化してきています。アメリカでの動きも反戦から、フィミニズムや黒人の待遇など、恵まれない者たちへの差別の告発と改善を求める方向に動いていたことも大きかったのでしょう。黒人の公民権運動の先頭に立ったキング牧師、運動の大きな糧とされたというマヘリア・ジャクソンの歌声があります。そして自動車会社を相手取って闘う消費者運動の旗手ラルフ・ネーダーが高名です。告発者ラルフ・ネーダーはアメリカの企業経営者に恐怖を与え、政治家への献金という形で、アメリカの政治を金漬けにする契機となったとも言われています。
rMartin Luther King, JrRalph Nade
Mahalia Jackson - Amazing Grace

公害闘争
 日本社会の動きは、当時、地方の奇病といわれていた病気が、実は工場が排出する汚染した排気水や排気ガスではないか、という科学的な診断や、医師による告発が出されたことで火がつきます。東大助手の宇井純の公害原論が強い注目を浴びます。高度成長を担ってきた企業・工場群への、抑えられた感情が吹き出てきます。  そして同時多発的に公害問題が惹起されます。水俣病、イタイイタイ病、川崎病、四日市
ぜんそくヘドロ公害等々です。また、食品に含まれる農薬を始めとした薬害への告発も相次ぎます。抗議の声は江戸時代の一揆のように筵旗を立てたもので、その異様な黒々とした雰囲気は時代を揺るがすものでありました。

水俣病患者 資料映像
写真:ユージン・スミス
  
写真:桑原史成                     新潟イタイイタイ病で背が20cm縮んだお婆さん          ヘドロに埋まった田子の浦
チッソを告発する水俣病抗議の旗

「わが会社に非あり〜水俣病と向き合った医師の葛藤」
 公害闘争は社会運動として全共闘運動よりも大きく社会を変えていく契機になります。企業も公害防止に乗り出し、やがて来る石油ショックの時代をも、全世界が不況に陥る中で公害防止技術によって大きく成長していくことになったのです。


ウーマンリブ反差別闘争
 公害闘争と並んで社会的な大きなテーマになったのは、反差別闘争です。差別されたもの達、女性(フェミニズム)、在日朝鮮人、部落民、障害者、アイヌなどのマイノリティの人権に強い関心が向けられ、アメリカの公民権運動と連動した形で社会運動が起きてきます。 中でもウーマンリブは大きな話題になり、過激な運動として広く知られていきます。ケイト・ミレット「性の政治学」がその契機となり、女性の社会進出の大きな力となっていきます。ウーマンリブの代表的な雑誌「女・エロス」は10年近くにわたって出版されます。日本でもウーマンリブに触発されて中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合、 中ピ連が有名になります。リーダであった榎美沙子のピンクのヘルメット姿はTVやマスコミに露出、マスコミの格好の餌になります。その過激な運動スタイルは評判にはなったものの、主張は借り物というか、欧米のコピーでしかなく、日本の社会を踏まえた地道な改善、革新運動を持たなかったが故に、早期に崩壊してしまいます。

 
当時のオピニオンリーダーの一人中山千夏
 しかし、アメリカ、ヨーロッパでは、告発や糾弾といった闘争により、様々な形での社会改革を進めるエネルギーになり、女性の社会進出も大きく進み、家に引きこもっていた障害者達も積極的に外に出るようになり、障害者の雇用も広く見られるようになってきました。日本も遅ればせながら取り入れられ、表面的な差別は80年代には消えていきます。差別をあからさまに言うことは社会的な制裁を課せられる形になりました。

 皮肉なことに、90年代に入る頃には、同和利権やエセ同和の問題が噴出し、在日朝鮮人が生活保護を不正に受給しているではないかなどの批判が強まり始め、差別が利権化している、逆差別という新たな問題を提起され、人権ヤクザと弁護士が批判されるようになったのが現在です。


注:この「性の政治学」はケイト・ミレットではなく、シルヴィアン・アガサンスキーの著作です。

経済的な背景

 70年代の大きな経済問題は、71年のニクソンショック、73年のオイルショック、75年の第二次オイルショックがあります。
 ニクソン・ショックとは、1971年アメリカ合衆国が、ドルと金の交換を停止、変動相場制に移行する国際金融枠組みの変化が起きます。当時のターゲットは日本と西ドイツで大幅な円高、マルク高を引き起こします。戦後、1ドル360円時代が続き、未曾有の輸出の膨張によって、高度成長を続け、この世の春を謳歌してきていました。一方、アメリカはベトナム戦争の負担により、なりふり構うことを放棄し、経済の建て直しに踏み出そうとしたことです。反戦運動の激しさもさることながら、経済的にもアメリカは限界に来ていたのです。

ニクソン大統領            Nixon Ends Bretton Woods International Monetary System

 ニクソン・ショックは以降、世界の産業、金融構造を根本的に変容させていくことになりました。しかし、当時は欧米の経済学者も、その結末を予想することもできませんでした。その変化は非常に長い時間の中で行われていくことになります。

 下の経済成長率のグラフを見てください。一番、大騒ぎしていた時代、現在では考えられない、世界でも稀にみることのない高い成長率にあったことです。 べらぼうな好景気にあったことです。世はまさに、昭和元禄と称され、東京オリンピック(64年)や大阪万博(70年)の開催を通じて、新幹線の開業や名神・東名の高速道路の開通、造船や時計、繊維、家電で世界を席巻し高度成長のピークに達していました。 石油ショックはこの図では74年です。この好景気こそが、いくら学生達が騒いでも、世の中はビクともしないというか、暴れても就職先には困りはしないという状況を生んでいるのです。


 昭和元禄の浮ついた気分は、政治的には旧来の共産党を中心にした左翼運動は、労働運動の退潮から、後退し、学生を中心とした新左翼運動が盛り上がっていきます。 70年に、よど号ハイジャック事件、三島由紀夫による自衛隊での割腹自殺事件が起きます。この辺りが新左翼運動の最後の頂点であったのでしょう。翌年の72年に連合赤軍事件・あさま山荘事件により、急激に新左翼運動は力を喪っていきます。

大阪万博 1970年


日通「花ひらく日本万国博」1970

 そして73年のオイルショック、続く75年の第二次オイルショックにより、物価が猛烈に上昇、企業の倒産やリストラが相次ぎます。 輸出に依存する日本が円高の中で存立基盤を失い、奈落の底に落とされるという強烈な不安が、全社会的に起きます。国家存亡の危機にあるという意識が全国民に浸透し、政治闘争を終焉させ、当時、盛り上がっていた公害問題と、エネルギー対策に社会が集中的に取組む時代がやってきます。そしてこの大きな力が、日本を世界の他のどの国よりも省エネ、公害防止技術を確立させ、新たな成長に向かって再発進させることになっていくのです。
オイルショック時の混乱(トイレットペーパーが消える騒ぎ) 昭和のドキュメンタリー(オイルショック)
 この大きな変動は、これからお話しする芸術運動に、濃い影を落としています。高度成長によって江戸時代から続いてきた生活、環境基盤が根底的に揺さぶられ、破壊され、楽になり豊かになりながらも、内在する言い知れぬ不安を抱え、このままで良いのか、という疑問が、社会的に育まれ、抗議としてアングラ運動を引き起こした、あるいは戦後の常識に対する疑問、進歩への懐疑が直接的な経済、社会問題ではなく、形を変え、芸術運動の中で生み出された。理性ではなく感情に訴える形で噴出してきたとも考えられるのです。
 オイルショックを超え、新たなスタート、新たな成長の中に起った時、70年代が終わり80年代が始まる頃、かつての不安、告発は時代遅れとなり、軽やかで楽しいものを求める気持ちが高まり、アングラという影の部分は否定され、消えていくことになったのです。アングラ芸術の中で、軽やかに変身できたものはメジャーにのし上がり、成功者になり、異形なる者達は再び闇の中に消えていったのです。

 近年、団塊の世代の人口圧力が、この時代を煽動したという説がありますが、反逆の先頭に立ったのは団塊の少し前の世代であり、団塊の世代は、多くが騒ぎに巻き込まれた形で、大学生活を送り、オイルショック後の日本の新たな成長時代にサラリーマンとして懸命に働いたのです。