小川プロ「仮題・牧野物語」の土方の出演シーンのスチール写真(内藤正敏撮影)

美術手帳86年4月号掲載
新宿文化で1972年10月25日から11月20日まで、5つの演目を5日づつ、切り替えて行われました。
・疱瘡譚
・すさめ玉
・碍子考
・なだれ飴
・ギバサン
芦川羊子、小林嵯峨、玉野黄市など土方巽の弟子達が総出演しました。
5つの演目、すべては見られなかったですが、3つは見たと思います。 最後の演目だったか、それとも次回の「静かな家」の公演だったか、土方さんがキリストを模した形で登場した時、それはアンチ・キリストだったのかもしれませんが、私には、神になったつもりかと、反発があり、これで終いだという気分がしたことを記憶しています。 まぁ、こんなことを言うのは私一人だろうとは思いますが・・・・。
以降、演出や振付を主体にするようになったのは、当然という感じがしていました。 自らがダンサーとして中心になって全体を引っ張るには限界に達していたと思います。それは最大の理解者であり、舞踏を作っていく上で精神的な支えであった三島由紀夫の死(71年、三島事件)が影響していたのかもしれません。あるいは時代の転換、前衛が前衛の意味を喪っていく、インテリの頭の中だけの、体制破壊を目的とした芸術運動が終わり、新たな構築を必要とする時代に、土方さんなりの対応方法だったのかもしれません。

土方巽のダンスを生で見るのは、これが最後になります。晩年に近く、公演という形で踊らない土方を見たのが、私の土方体験です。
私が土方巽を最初に見たのは、人間座の野坂昭如「骨餓身峠死人葛」1970年の舞台でした。花道から現われると、場内はヒジカタという掛け声が方々から、かかりました。痙攣するように震動させる肉体の存在感は鮮烈な印象でした。

土方巽のアーカイブを慶応大学アート・センターが作っています。ネット上ではこれが一番のものでしょう。土方巽のダンスはこの頃から、ガルメラ商会として共に踊ってきた大野一雄、石井満隆、大野慶人、笠井叡とは共演しなくなります。それぞれに別れ、新たな活動の場を求める形ですが、土方巽が突出します。笠井叡は天使館を作って舞踏公演を行いますが、他は沈黙なり、海外に出てしまう形になります。このため私が石井満隆や大野慶人の踊りを見るのは80年代になってからです。
左は1972年10月15日付け。燔犠大踏鑑(題字、三島由紀夫)の新聞形式のパンフ。巻頭に種村季弘の「肉体の封印が解かれる時」、「肉体の風葬者」壇一雄、見開きのページに土方巽の談をまとめた高橋睦郎の文章、吉行淳之介と土方の対談、裏に「肉体の不安に立つ暗黒舞踏」渋沢龍彦の文章があります。このメンバーは、場違いの感じもないではありませんが、1959年の舞台には、船橋聖一や黛敏郎の姿があったとありますから、様々な人を惹き寄せていたのでしょう。

幻獣社・土方巽

羽永光利写真集「舞踏」から

                                    写真、細江英公


Hijikata Portas Labyrintus http://www.art-c.keio.ac.jp/archive/hijikata/portas/diagram.htmlより

嵯峨三智子 アサヒグラフ 1970.11

 暗黒舞踏に興味を持って次の公演を探しましたが、なかなかありません。アートビレッジでの公演を知ったのは偶然でした。 場所の記憶で述べたように歌舞伎町のど真ん中で、恐い雰囲気の所で、廻りは酔っ払いばかりで、芸術とは無縁でした。 ストリップと間違って入ってくるサラリーマンもいました。私が見たのは、3回くらいではなかったかと思います。 ダンスを見るための観客はいつも片手で数えられるほどしかいませんでした。 ストリップを見る観客ばかりだったという話がありますが、それは間違いです。 確かにストリップかと思って入ってきた客はいましたが、雰囲気に呑まれてセキとして声なしでした。 それに肉体的に痩せ過ぎていて色気も何もなかったですから、ストリップとして見ていた客はいなかったでしょう。

 土方さんは自身も、弟子にも、公演代を稼ぐ為に、キャバレーなどに金粉ショーに出演させていました。 唐十郎や李麗仙も、土方さんの紹介で金粉ショーで稼いだ話があります 。大駱駝館を作る麿も、一番弟子の玉野黄市、二番弟子のビッショプ山田、男の弟子達は全員金粉ショーに出かけ、当時、隆盛を極めたキャバレーで大きく稼ぎ出し、そのショーのレベルの高さは素晴しく、キャバレー経営者から絶賛され、 全国を巡回したとビショップ山田こと、山田一平は「ダンサー」の中で書いています。土方は、インテリによるモダンダンス、パフォーマンスではない、ドロドロとしたアンダーグラウンドの闇のエネルギーや魅力を引き出そうとしていたように私なんかは感じます。ここら辺が60年代のハプニングを超えるエネルギーになっていったと思います。

 土方さんのダンスの特異性は、タイトルが示す強度なエロスあるいは肉体的な病理、膿とか瘡蓋とか、そういう強い身体へのイメージ、しかも一般には汚らしいものであったり、 忌避するようなものをテーマとして選ぶことが、従来のダンス、神に奉げる、神との一体化を目指す舞踏との違いに現われています。 その意味では西洋の舞踏ばかりではなく、日本の舞踊をも離れた、土俗的な哄笑を意味の内に秘めた高度に哲学的なダンスであったように私には思えます。 桜井圭介氏は「西麻布ダンス教室」の中で、農作業からくる背骨や腰の曲がった「からだ」、がに股とか老人の手ボケ、白目を剥いたゴゼ、イタコの身体、寒さで縮こまってしまった手足や悪い姿勢、長い年月の中で奇形化してしまった身体、これを基盤として作られたダンス発想、反近代、反西洋、反日本的な美、否定形としてのダンスとして構築されたと書いています。時折、路上でホームレスの人がきっと病気なのでしょう、ひどく捻じ曲がった形でゆっくりと動いているのを見ると、暗黒舞踏だと思って感激してしまう自分がいます。こういう形に変貌していく中で笠井さんや大野さんが土方さんから離れていったのだと思います。

 幻獣社の公演は、芦川羊子さんと小林嵯峨さんの2人が踊っていました。白塗りした身体は2匹の獣のようでした。アスベスト館に移る白桃房公演では芦川・小林の2人以外にも出演していました。山田一平「
ダンサー」によれば、この頃から暗黒舞踏が大きく変容し始め、土方さんの訓練、演出の中心が女性ダンサーを中心に組まれるようになっていったと書かれています。そのことが男性ダンサーの不満を強め、男性ダンサーの離反を引き起こしたといいます。そんなことは見てる方には全然、分らない話でしたが・・・。

1971年 幻獣社公演 アートビレッジ 「羊羹」

  





京都公演和栗、芦川、山本、雨宮

 この写真は疱瘡譚で私が撮った写真です。





 これは雑誌「創」の72年に掲載された芦川さんの四季24夜での舞台です。

映画「恐怖奇形人間」での土方
 疱瘡譚の公演を写したもののようです。記憶とは違うような・・・







 当時、騾馬舎工房が新聞紙型のミニコミ「カレイドスコープ」を発行していました。左が16号、右が18号です。土方さんや麿さん以外に、松田修、種村季弘さんなどが執筆しています。全然、知りませんでしたが、ネットで探したら、こういう人が作っていたようです。

中原蒼二 プロデューサー 中原淳一の子息。
1949年、東京に生まれる。1968年、早稲田大学第一文学部入学。 在学中にプロダクション(株式会社「散種」)をたちあげ、文化情報誌『カレイドスコープ』を刊行。
1973年、早稲田大学除籍。1975年〜「実験工房・騾馬舎」を立ち上げ、土方巽「静かな家」、麿赤児「天賦典式」等、舞踏・演劇のプロデュース多数。1989年〜浅田彰、荻原富雄氏と「都市・デザイン研究所」設立、国連大学本部ビル、NTTインターナショナルセンター等、基本構想・基本計画多数。



珍しい写真があったので掲載します。写真家は英隆さんです。雑誌はフォトアート1971.8月号です。


場所は京大西部講堂ではないかと思います。

 これは有名な1959年の禁色の舞台写真です。相方は大野一雄さんです。参考までに。