大野一雄

長く沈黙し、公式の舞台でダンスをすることのなかった大野一雄が土方巽の振付で突然といってよいような形で77年の年末に公演を行います。あまりに長く公演をしていなかったので若い人達は知らない人が多かった。私が何故、知っていたかというと、私の大学の一年先輩の人が演劇の演出をしていて、彼の公演の時に、飛び入りでダンスを踊ったからです。先輩が凄く感激していて、強い印象がありました。大野さんのダンスについては、長野千秋監督によるO氏三部作、「O氏の肖像」(69年)、「O氏の曼荼羅」(71年)、「O氏の死者の書」(73年)があります。最近はめったに上映されませんが、70年代の実験フィルム・フェスティバルではよく上演されました。
映画「O氏の肖像」長野千秋監督ラ・アルヘンチーナ頌
ラ・アルヘンチーナ頌Shades of Darkness
この「ラ・アルヘンチーナ頌」(77年)はスペインの舞姫、ラ・アルヘンチーナ(1890-1936) を見た大野一雄(当時22歳)は、半世紀を経て彼女を讃える作品として演出されたもので、非常に抒情的な作品に仕上がっていました。当時、大野さんは71歳、枯れた薔薇の花を挿して踊る姿は独特の美しさを醸しだし、土方さんの振付の素晴しい冴えでした。大野さんは70歳を超えて初めて本当の舞踏家になったのだと言われました。土方さんらしさではない振付、かがんだり腰を落として手足を縮めるたりせずに、立つという感覚が表現されたことです。神に捧げる踊りに回帰したのです。果たして土方さんにどのような感想を持たせたか分りませんが、大野さんにとっては素晴しい贈り物になりました。第1級の舞踏家として、ダンスの世界を大きく超える存在になったのです。


                                    この舞台はタイトルからすると「死海」ですが、中身については知りません。

Shades of Darkness
隣は息子さんの大野慶人さんのようです。外国人の方が写真を撮っています。海外公演の可能性が高いです。


大野慶人
 大野さんの息子さんです。若い頃はお父さんを超えるダンサーと言われていました。及川広信さんが次のように書いています
『私は大野慶人がこのビート・ジェネレーションの代表者だったのではないかと思う。私のスタジオに現われたとき、まだ文化学院に入ったばかりで、青年になりきらぬ、自然そのままに伸びたギリシャの美少年を思わせた。 彼の均整のとれた姿態が、よく状況に置かれた人間の苦悩的な態度を表わし、その筋肉質な胸と背は、ロダンの彫刻のように緊迫したけいれんを見せた。彼は暗黒の中に咲く青いロマンの花を持っていた。彼の演技の特性は、「偶発性」だった。
 ジョン・ケージの音楽は、われわれの眼には、非常に行動的な演劇として見られたのだが、大野慶人は、その日常の生活感を舞踊の土台にするという意味で、またケージの言う「目的に満ちた無目的性」という意味で、はなはだ彼はケージ的だった。
 彼は59年の4月、大野一雄モダンダンス公演で、ヘミングウェイの「老人と海」でデビューする。同年5月に、土方巽と組んで三島由紀夫の「禁色」を第6回新人舞踊公演に呈出する。11月には、バレエ東京の「血の婚礼」と「背徳」に出演する。』
この写真はその頃のものと思われますが、キャプションが無いので不明です。
60年前後の大野さん親子の共演の舞台のようです。これもキャプションがありません。

 土方さんの弟分的な位置づけでしたが、土方さんが暗黒舞踏を作る頃にヨーロッパに渡り、長く帰国しませんでした。私なんかには幻のダンサーでした。アルヘンチーナでお父さんが復活し、お父さんのヨーロッパ公演を手伝い、お父さんの介添えみたいな形で日本に帰ってきました。大野さんの本当の晩年の振り付けもしていました。
 下左の写真は美術手帳(71.1)ですが、そこには、「大野の肉体とその運動は、じつにみずみずしくもやわらかく、妖しくもやさしく感じられた。土方から受けるのとは別質の、やはり恍惚とした恐怖の体験というべき感動」(石子順造)と書かれています。帰国してからの舞台が右のパンフレットです。パンフレットがあるくらいですから、見ているはずなんですが記憶にありません。


こちらは日本に帰ってきた頃の80年代くらいではないかと思います。Shades of Darkness

 大野さんは何人かの弟子を育てています。笠井叡さんもその一人です。土方さんにも大きな影響を与えています。武内さん、池部さんは弟子です。

武内靖彦

最近の公演の案内にリンクを貼っておきます。

池部篤治