東京キッドブラザーズ  演出:東由多加


 東京キッドブラザーズは、アングラ演劇の中では異色の存在です。 天井桟敷にいた東由多加が寺山修司の呼びかけに集まってきた家出少年、少女達を率いて劇団を結成します。 そして70年、いきなり何の伝手も、金もほとんどない状態でアメリカに向かいます。 この右側はアメリカに行った後に再度、試みられたヨーロッパ遠征の呼びかけパンフです。アメリカ行きも、こんな状況でした。 ヨーロッパ行きは結局は実行されなかったのではないかと思いますが。
 アメリカ行きの出立公演が彼らの最初の演劇公演「黄金バット」です。その頃の私は何でも見ようとしていたのでしょう。 この小さなパンフのみで出かけたのです。エネルギーだけはありましたが、ハチャメチャな公演でした。 誰でも思ったのは失敗するだろう、帰ってこれるのかな、この連中は。そんな感じです。

 
 ところが1年以上経った頃、彼らがアメリカで観客を集め、成功したという知らせでした。 この記事は新宿PlayMaoの70年10月に当時ニューヨークに在住していた現代美術家の篠原有司男のレポートとして出てきます。 その後の話によれば、当初は惨憺たる旅であったようです。行った人間の相当数が脱落したとのことです。 金を稼ぐためにアルバイトをしながら旅を続け、中西部に入る頃から、ようやく観客が入り始めたということです。
篠原有司男のレポート
 凱旋公演が行われ、非常な人気が出ます。チラシは何枚かありますが、私が行ったのは西遊記だったと思います。 内容は完全にミュージカルになっていました。歌と踊りで構成され、アングラが持つ影、暗さは欠片もありません。 観客は、ほとんど20歳前後の女性が多かった。あの悲壮に満ちた出発を知っている人は誰もいなかったでしょう。
 キッドブラザーズは公演のたびごとに観客を増やし、東は師匠の寺山さんを超える存在にまでなっていきました。


 別冊太陽「現代演劇’60〜’90」


猿のカーニバル

 あまりにも集まるミーハー的な観客と、陽気なミュージカル仕立てに、私の関心は離れていくのですが、その後の東京キッドブラザースについて、森秀男氏はこのように語っています。『77年に新宿シアター365に劇団の拠点を置き、4つの舞台で長期公演を行った。さまざまな人生の縮図を重ねられた淡彩でえがかれた世界に、それまでの東の作風とは違ったのびやかさが目立った。78年、12月の一夜に九段の日本武道館に8千人の観客を集め、12月の夢を上演。客席の中、縦横に張り出された花道を駆け巡る俳優たちの熱演・・・フィナーレの柴田恭兵や三浦浩一をめがけてファンが殺到していったが、その余波は79年1月のハーメルンの笛にも見られた。狭い地下の小劇場の舞台と客席の緊張感のなかでは決して起こらなかった光景である。そこに大衆化へ向かう東京キッドブラザースのきわどい危うさを感じないわけにはいかない』と書いています。
 その危うさも、東の体調不良から80年くらいで東京キッドブラザースの活動は休止します。このミュージカル人気は劇団四季に引き継がれていくことになります。東京キッドブラザーズは今でもファン・サイトがあるように根強い人気を保持しています


 7回忌に思い出を綴った画像がありました。こういう画像は何時まであるのか分かりませんが。