演劇団 演出:流山児祥
 70年代に特筆すべきほど公演を重ねていました。ここに13枚のチラシがあり、他にも数枚あります。夢の肉弾三勇士が当り狂言だと思うのですが、極めて強い政治的メッセージがあり、革命に向かって疾走する気分に満ちていました。連合赤軍事件による左翼の致命的な敗北の後、非常に苦しんだと思われます。それでもやり続けたエネルギーや劇団を維持した力は相当なものであったと思われます。
 演劇団は70年に結成され、劇団員の平均年齢が20歳に満たないほど若い劇団だった。主催者の流山児祥は1948年生まれですから、旗揚げ公演は22歳の頃になります。青山学院大学の全共闘副議長であったのですから、先鋭そのものであったのでしょう。68年に大学演劇部を解体して、及川恒平、北村魚、悪源太義平と共に劇団を作っていくのですが、その間に状況劇場や早稲田小劇場の研究員を短い期間ですが、経験しています。


   71年から「夢の肉弾三勇士」三部作を上演し、一つのスタイルを確立したと森秀男氏が書いています。『上海事変における肉弾三勇士を軸にしたテロリスト、川島芳子、上海帰りの少女、傷痍軍人、脱走兵を絡ませ、226事件や関東大震災などの歴史断片をつづりあわせた夢幻劇で、極めて荒削りであるが、スピードと叩きつけるような集団の迫力』(森秀男「60年代演劇の継承者たち」流動1979年8月号)と評され、鮮烈に展開するアジテーション劇と表題につけられています。
 演劇的には、状況劇場や天井桟敷などのような革新性や、脚本の力もそれほどあったとは思いませんが、ともかく90年に解散するまで頑張り抜いたというのは素晴らしい。



如何なる星の下に
右端が北村魚

紅の翼
悪源太義平、新白石、赤星エミ(「新劇」1973.7)

 この辺りから浅草木馬館を常設小屋にしています。

地獄の季節流山寺祥と北村魚




 月蝕歌劇団はまだ、作られていません(86年旗揚げ)が、78年にこんなパンフレットがありました。高取英さんが脚本を提供しているので、この脚本が劇団名になったのでしょう。パンフレットの中には、流山児祥と寺山修司、高取英の対談が掲載され、ピーター・ブルックの演劇について意見を交換しています。