演出:つかこうへい

 つかこうへいは、70年代の後半から80年代の前半まで、一斉風靡します。評判が立ってからの観客動員は大変なものがありました。Wikipediaには演出の内容について、随分、詳細に書き込まれています。 ちょっと他の人に比べて・・とは思いますが。既に時代はアングラ演劇でも、楽しいとか、面白いとかに流れていて、政治的なものは風刺程度に留まるようになります。 そういう意味では明らかに第2世代に入っています。熱海殺人事件で岸田戯曲賞をもらっています。
 つかこうへいは、初期の頃は「劇団暫」で脚本を提供する形で、自ら演出していません。 このチラシにある「戦争で死ねなかったお父さんのために」も、つか関係の俳優達の誰もいませんし、脚本を提供しているのみの関わりのようです。 この人の脚本の腕は凄いものがありましたから、舞台装置はほとんどありません。例えば熱海殺人事件の場合には机一つと椅子が確か二つ、もしかすると一つだったかもしれません。 ともかく舞台装置や装飾的な衣服はなく、本で闘うという要素の強かった人です。

 つかこうへい事務所を立ち上げて以降は自ら演出をするようになります。その間の事情は明らかではありません。 素っ気無いチラシばかりですが、これが特徴といえます。初回公演に 平田満の名前があります。 この頃、平田は早稲田の学生だったのではないかと思います。 つかの劇団からは、三浦洋一風間杜夫根岸季衣など、以降、TVで活躍する俳優達を沢山、輩出していきます。 また、タレントを俳優として厳しく鍛え上げることでも有名になります。

 まぁ、私らのような第一世代「命」にとって、面白いけれど高くは評価できないというか、演劇的にどうだったのかなとは、思います。 そういう意味で演劇評論家による劇評が少なかった人でもあります。





 飛龍伝からですが、チラシはありません。つかさんのところは、あまりチラシに力を入れてはおりませんで、確かA5くらいで文字ばかりで素っ気無いものでした。このために残り難いものでしたし、チラシやポスターで客寄せするタイプではありませんでした。つかさんは美術的なものに関心は低かったと思います。あくまで台詞と俳優だったのでしょう。


広島に原爆が落ちる時

                               78年の熱海殺人事件
ストリッパー物語

 人に訊かれたので、付け加えておきます。70年代も半ば過ぎくらいからアングラ演劇も、以前の危険で怪しげなものという世間のイメージから次第に世間で認められるようになります。 何より見に行った人達が、面白い、楽しいということが分かったのでしょう。 主役を張る若者が格好良いということもあったのでしょう。つかさんが出てくる時代は、普通の女の子達が劇場に殺到し始めたのです。 明らかに以前とは客層が変わります。 彼女たちが演劇の中身を理解していたとは思えませんが、アングラの持つ非日常的な雰囲気は大いに刺激になったし、これまで遠くにいた俳優がすぐそこで見られるということ、声をかけ振り向いてもらえる存在だったのですから興奮したのでしょう。根津甚八が凄まじい人気を拍し、やがてTVや映画に出て行く、つかさんの所の俳優たちもTVなどの表舞台に出て行く。そういう時代がやってきたのです。やがて、アングラ演劇に出ることがTV出演のステップにまでなっていく。逆にアイドルや歌手が俳優にステップアップするためにアングラ劇団に一時所属して、演出家からトレーニングを受ける、そういう時代に、つかさんは見事に成功した演出家になっていきました。
 こういう時代の流れに、当然のように反発があり、つかさんが仲間内から高い評価を受けるということは少なかったのではないかという気がします。というのも演劇雑誌で批評の対象になることがほとんどなかったからです。
 我々、第一世代の演劇に親しんでいた者たちにとっては、観客と演劇が一体となって、俳優も観客も相互に通じ合うというか、観客も何時でも舞台に立てるというほど身近な感覚があったのです。俳優は劇を演じているというより、演出家を通じて、観客に向かってアジる、それに観客が呼応する。だから俳優のせりふに、観客が「ヨシ」、「そうだ」と呼応する。俳優も、見ている我々も同じという感覚、世の中を変えていくのだ、という革命前夜のような雰囲気が抜け落ちていくのが、第二世代以降の演劇であったのです。楽しく面白い、華やか、軽やかが以降の演劇を特徴付けるものになりました。