曲馬館  演出:翠羅臼(すいらうす)

 amazonでルナパーク・ミラージュ―三部作の紹介がありましたので、掲載します。
翠羅臼:1947年生まれ。1973年「曲馬舘」創設に参加。1980年「曲馬舘」解散。その間、「日本読書新聞」を中心に劇評などを執筆。1983年「夢一族」創設に参加。全国テント興行の他、山谷、横浜寿町、名古屋・笹島などの寄せ場で興行。1988年「夢一族」脱退。以後フリー。1995年より制作ユニット「ルナパーク・ミラージュ」で活動。

 このチラシは76年以前です。状況の赤テント、68/71の黒テントの向こうを張って黄色のテントで公演をしていました。ともかく過激、素裸になるわ、地中から飛び出るわ、小便だか何かを確かしたような・・・、下の記事にもありますが、警察沙汰も何回もある、政治性の強い最も過激な集団です。

 曲馬館にいた野崎六助さんのインタビュー記事があったので抜粋しました。
『七六年が最初の出会いです。人によっては曲馬館の一番の最盛期というのはそれより前にあって、七六年にやった芝居というのはたいしたことないというふうに言う人もいます。それはともかく。七六年の五月に京大の西部講堂に曲馬館が来て、それからです。
 芝居は『日本乞食オペラ』と『踊る一寸法師』の二本立て、日替わり公演です。『オペラ』のテーマはひとことでいえば、「ヒロヒトを殺せ」です。
 東アジア反日武装戦線狼の虹作戦に呼応したものですが、衝撃を受けたのは、そうしたアジテーションの側面じゃないんですね。芝居がはらんでいた名づけようのない混沌とした活力に何より打たれたんだと思います。誤解をまねくような言い方になりますけど、アジテーションだけなら「ヒロヒトを処刑せよ」が「天皇陛下万歳」にでんぐり返っても、衝撃の質はいっしょだったと思います。
 そのとき曲馬館は全国縦断旅興行を数ヶ月つづけて、最終的に九月に東外大の日新寮で無許可でも上演するという方針を立てていました。
 九月二五日、日新寮に突入して、一五名逮捕という事態になります。そのとき救対みたいな活動があったんです。東京をもちろん核にしていたんだけれど、京都も人が自然に集まってきたんですね。京都でも芝居だけじゃなく音楽をやってる連中なんかが曲馬館という刺激を受けて集まりました。
 曲馬館の中心メンバーが六名起訴されて裁判になった。あのころは新左翼党派の裁判闘争もずいぶんと行儀の良いものになっていたと聞きますが、曲馬館の裁判は紛糾したものでした。大げさにいえば、法廷がアングラの舞台になったみたいな。傍聴席からヤジ飛ばすとか、セクトがやらなくなっていたことを復活させたんですね。
 裁判官は、あいつ、近藤ってやつだった、屈辱感に顔がひきつりどおしでした。菅孝行さんが特別証人で弁論をしてくれました。しかし裁判官には馬の耳に念仏でした。裁判官忌避という戦術をとったんですが、それで法廷が騒がしくなったときに、被告の一人が立ち上がって近藤に面と向かって「おまえはクビじゃあ」と叫んだんです。傍聴人は全員、退廷を命じられた。裁判所から追い出されちゃった。弁護人は「あれはクビと言ったんじゃない、忌避と言ったんだ」という苦しい言い抜けを試みていました。忌避なんてむずかしい言葉、叫ばないですけどね(笑)。』



 2007年にはパレスチナで、状況劇場の役者だった大久保鷹を加えて、公演を敢行したようです。70年代の最後の生き残りなのでしょう。

 当たり前のことですが、過激だからと言って演劇的に優れていたとか、時代を変える力になったということでは決してありません。これは演劇だけではありません。過激なるが故に一部の人間しか知らず、伝説にもなりえず、長い年月の中で消えていきます。先端を歩いたという誇りだけが生きる価値になる。こういう人間を私は好きですが、その思いだけでは、やるせない。