海外演劇の影響

 アングラ演劇の創始者達の話には、海外からの影響を語る人は寡聞にして知らないのですが、菅孝行氏が「戦後演劇」の中で、1960年頃のサルトル演劇への影響を書いています。早大劇研や東大劇研での上演があり、その後、上演メンバーの多くがアングラ演劇の担い手になったとあります。鈴木忠志の最初期の「蠅」、唐十郎、当時は大鶴義英と本名を名乗っていたようですが、「恭しき娼婦」にはサルトルの強い影響があったとあります。
 サルトルの演劇ですから、「唯物論と革命」にあるようにラディカルなマルクス主義であり、その理想主義的な傾向は反スターリン主義であり、新左翼に通じていくものがあります。
 菅はサルトル以外ではブレヒトの影響を挙げています。ブレヒトの対極にある不条理劇が盛んになっていくのですから、反面教師という意味での部分もあったのでしょう。
 一般からも演劇への関心が高まる中で、海外からの情報も、私のような人間にも大量に流れ込んできていました。不条理演劇ではイヨネスコ、ベケットが代表で、海外演劇人が来日して公演を行いました。海外の演出家を迎えるという形が出たのは、この時代が最初かもしれません。天井桟敷のヨーロッパ公演などを通じて、海外でも日本の演劇に対する関心が高まったこともあったでしょうし、海外から招聘してもある程度は採算の目途も立ったからかもしれません。
シェイクスピア劇では、イギリスにピーター・ブルックという演出家が世界的な評判を得た関係もあり、来日を果たし、数回、日本公演を行っています。

 〜海外〜ヨーロッパ

不条理演劇

 ● イヨネスコ(Eugene Ionesco)
不条理演劇の代表格であるイヨネスコの脚本を基にして、ニコラ・バタイユ(Nicolas Bataille)が来日、日本人俳優を使って演出し、新宿の蠍座で公演を行いました。大きな刺激になり、以降、いくつかの劇団でイヨネスコの芝居が演じられていきます。

イヨネスコ「二人で狂う」
演出:天野二郎 左:山岡久乃、右:観世栄夫 

その他、海外の演出家や海外の戯曲の公演も行われ、これがやがて利賀村での国際演劇フェスティバルにまで繋がっていきます。

これはバタイユの演出ではないですが・・。


 ベケット(Samuel Beekett)
 私が当時、最も惹きつけられた作品はベケットでした。当時、翻訳された戯曲、小説は、ほとんど読みました。特に三部作といわれる「モロイ」「マロウンは死ぬ」「名づけえぬもの」は、自閉的な孤独と絶望は、当時の私の気持ちに強く寄り添うものでした。ベケットの日本での公演も、いくつか行きましたが、本で読んだ方の思いの方が強かったです。

Endgame1


演劇理論

 ●実験演劇
 ポーランドで実験劇団を1959年に設立したグロトフスキJerzy Grzegorzewski の演劇は、当時、演劇界を支配していたスタニフラフスイーのスタイルを超えるものとして強い関心を惹き寄せていたと思われます。 この本が出版されるのは71年ですが、アングラ演劇の方法論に、影響を与えていったのでしょう。ここらは業界人ではないので分からないし、また、演劇評論家も取り上げていません。この本に掲げられている写真を見ると、アングラ演劇そのもののようですが、その一方でこういう本の影響で俳優を鍛え、演出を行ったとも思えない。自ら行っている演劇の、世界の中での位置づけ、理論付けになったのではないかと思われます。




 ●カントール(Tadeusz Kantor )
 1982年に来日、第1回利賀フェスティバル(世界演劇祭)に参加。「死の教室」公演は評判となった。著書は「死の演劇」
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死の教室



 ●残酷演劇
 グロトフスキが俳優達の身体訓練や演出における方法論が主体であったのですが、アルトーAntonin Artaudは独特の文体で、詩的なアジテーションを行っています。魔術的演劇、残酷演劇を唱えるのですが、具体的な方法論を提示することがない分、強く励起させていくところがあり、アルトーへの思いは強く働いたと思います。アルトーについては、取り上げられることは多かったですが、それが具体的になんであるかを掘り下げるのは難しい問題でした。残された映像では、何がどうであるかが分かるものは何もありません。幻の演劇として、彼の作品、チェンチ一族などは、天井桟敷などで公演されますが、それがどこまでアルトーであったのかは分からない。及川廣信さんの文章がありましたのリンクしておきます。
    

若い頃と老年のアルトー


ロイヤル・シェイクスピア劇団〜ピーター・ブルック(Peter Brook

イギリス・ロイヤル・シェイクスピア劇団(RSC)にピーター・ブルックという演出家によって、シェイクスピア劇が一新されます。過度な舞台装置を排除し、衣装もシンプルなものにし、何より生き生きとした舞台作りを行ったことです。このRSCの招聘が行われ、日本でも何回かの公演が行われます。私は最初の公演しか見ておりません。ただ、以前を知らないので、感激というほどのものではなかったような気がします。シェイクスピアへの思い入れの問題かもしれませんが・・。

新劇1973.7

冬物語 アサヒグラフ

海外〜アメリカ

アメリカの影響は、ヨーロッパよりももっと分かりません。前衛劇団のリビング・シアターは噂だけでした。果たしてアングラ演劇人の誰かが見ている可能性があるかどうか・・・・・

リビング・シアター(Living Theatre
1947年米国で創設された劇団。演出家,俳優のジュリアン・ベックとその妻ジュディス・マリーナを中心に結成,ニューヨークで活動した。麻薬患者を扱ったゲルバーの《コネクション》などを前衛的な手法で上演し,次第に先鋭なアナーキズム的立場を鮮明にした:(株)日立システムアンドサービス 百科辞典マイペディア
メカスの刑務所を扱ったフィルム「リング」はリビング・シアターのメンバーが関係していたような・・うろ覚えですが・・




                               おお、カルカッタ 1969

オフ・ブロードウエイ、オフ・オフブロードウエイ
 この時代に、ニューヨークのブロードウエイで大きな異変が起きてきます。いわゆるオフ・ブロードウェイ(Off-Broadway)の成立です。オフ・ブロードウエイとは、マンハッタンにある比較的小さい劇場で上演される演劇で、ブロードウェイではミュージカルが多いのに対して、オフ・ブロードウェーではストレート・プレイ、パフォーマンス、1人芝居、ダンス、ミュージカルなど様々なジャンルの作品が上演され、実験的前衛的な試みが行われるようになり、その成功によって前衛性が失われると、より小さな劇場での公演、オフ・オフブロードウエイが形成されていったことです。その代表的なものが「ヘア」(ミュージカル)です。素裸になって男女が踊るというセンセーショナルな話題で、日本の週刊誌にも取り上げられました。日本での公演も行われますが、当然、素裸は無理ですし、さほど評判にもならずでした。やがて映画にもなりますが、映画の中身は言うほどのものは何もありません。
  
 こちらは飯村隆彦氏が紹介のものです。愚行演劇と題されているのですから内容は予想がつきます。


Meredith Jane Monk

Astronaut Anthem


〜日本の伝統演劇の変化〜
 日本の中で、従来の新劇、左翼的な志向と翻訳劇、基本はシェイクスピアであったり、イプセンであったり、あるいはアメリカのテネシー・ウイリアムズといった、赤や金の鬘をつけての演劇、を超えようとする動きが出てきます。歌舞伎界の武智鉄二も分野は違うけれど革新的な存在でした。伝統芸の役者達、歌舞伎の市川染五郎、吉衛門兄弟、能の観世静夫、栄夫、寿夫、狂言の野村万作などが、新劇やアングラ演劇、ミュージカルに挑戦し始めたのも、この時代です。
 当時の流行作家である安部公房や三島由紀夫も挑戦します。演劇的には三島由紀夫は非常に大きく、高い評価を得ます。安部公房も一時、劇団を編成し、グロトフスキを取り入れた演劇を目指していたようです。この劇団は空中分解してしまいますが・・。

三島由紀夫
   芥川比呂志と

 ああいう死に方をしたものですから、三島の演劇も現在でも強いバイアスがかかっているように思います。 戯曲という純粋な文学としてみた時に、構成力の巧さは、なかなかのものがあり、翻訳物とは段違いの力があります。 アングラ的な演劇の面からみると、やはり近代劇という印象で、唐十郎的な肉体演劇、あるいはグロトフスキ的な実験演劇とは一線を画するものです。 やはり頭の中で劇を構築してあるもので、俳優の肉体性は、あまりないものです。中でも「サド公爵夫人」は明治以来の日本近代劇の中で最高の脚本と讃えられることもあります。
 ただ、愛人とまで噂されるくらい親密な村松英子を意識した面、三島的な貴族的な雰囲気を醸し出すのに彼女は他にないものがあったように思います。 私自身は「サド公爵夫人」、「癩王のテラス」は見ています。日生劇場だったかな?村松英子は美しかったです。 彼女は三島事件以降、芸能界から引退するような形になってしまいました。三島に殉じたとも言えます。

村松英子

こちらは死んだ後(1975年)に行われた連続記念公演のパンフ

《三島由紀夫戯曲リスト》
  鹿鳴館
  近代能楽集
  サド公爵夫人
  朱雀家の滅亡
  わが友ヒットラー
  癩王のテラス
  椿説弓張月