70年代に、我が国のファッション業界では世界的に有数の才能が誕生してきます。80年代には国内でも数多くのショーが開催されるようになりますが、その先頭を切ったのは、やまもと寛斎高田賢三、三宅一生、山本耀司川久保玲がいます。ただ、70年代はファッションへの関心は決して高いものではなく、男が就く職業として高い評価というより、何でそんなことをするのか分らないが正直なところでした。女性が手がけるもの、森英恵が代表でしょうが、女の仕事という雰囲気でした。このため世界的なデザイナーが出現はしてきているのですが、ほとんどマスコミから注目されることはなく、一般の人も関心はなかった。むしろ海外での評価が高く、国内では無視されていました。やまもと寛斎、三宅一生、高田賢三、山本耀司らの名前が出てくるのは、70年代の終わりから80年代になってからのことです。

ブーサンの縫製の歴史から
昭和40年はデザイナーの三宅一生や高田賢三、松田光弘がパリに渡った。三宅一生は4年後に帰国するが、彼がパリへ向かったのは、単にパリに憧れたというのでなかった。日本に絶望し、自分たちを受け入れてくれない日本に背を向ける行動であったという。日本の業界にあるものは、パリがすべてとする無条件のパリ信仰≠ナあり、花嫁修業としての洋裁だけだった。わが国のファッション業界の貧しかった体質を如実に物語っている。昭和45年には大阪で万国博が開催され、この年、森英恵はニューヨークでコレクション活動を開始した。パリでは高田賢三、三宅一生がコレクションを開き、やまもと寛斎はロンドンでコレクションを開いた。日本デザイナーの時代の幕開けの年となった

このページではファッションデザイナーが行ったショーのチラシを提示します。たまたま目について集めたものなので、実際には他に沢山あったろうと思います。ファッション・ショーがイベントとして仕掛けられるのは、やまもと寛斎、三宅一生が最初だろうとは思いますが。

やまもと寛斎今と大分、イメージが・・

美術手帳71.1

モードの世紀から
71年にロンドンで、「Kansai In London」と題し日本人初のコスチューム・ショーを行なう。デザイナー以上にショーマンでもある寛斎は、このショーでは音響、アクション、コスチュームが一体となった空間が演出され、服はもとより、歌舞伎のぶっ返りや引抜きの手法が取り入れられ、瞬時に服の色や形が変化するアイデアが披露された。73年のデヴィッド・ボウイのニューヨーク・コンサートの衣裳を担当するなど、このロンドンでのショーをきっかけに、デヴィッド・ボウイをはじめ、エルトン・ジョン、スティーヴィー・ワンダーたちとの交流が始まった。
72年には東京の後楽園でファッション・ショー「kansai 72」を開催。翌73年は東京12チャンネルのテレビ番組「私の作った番組」でロック・ファッション・ショーを放映。77年、パリで「Kansai In Paris 」を発表。75年からはパリ、ニューヨーク、東京で毎年コレクションを発表。

このパンフレットは78年の山口小夜子を使った発表会のもの。


高田賢三
高田賢三の画像も文章も講談社「日録20世紀1970昭和45年」から取りました。70年5月パリのギャルリー・ヴィヴィエンヌでブティックを開き、オープニング・ショーで浴衣地や紬、古ぎれなどを使った作品を発表、ケンゾー・モードを作り出します。その作品がエルの表紙を飾り、大量の注文が殺到、成功への一歩を踏み出します。



三宅一生
Wikipediaから。1973年、「イッセイ・ミヤケ秋冬コレクション」でパリ・コレクションに初参加。衣服の原点である「一枚の布」で身体を包み、"西洋"でも"東洋"でもない衣服の本質と機能を問う"世界服"を創造。布と身体のコラボレーションというべきスタイルの確立は、1978年発表の「Issey Miyake East Meets West」で集大成された。このチラシは78年以前のものです。