寺山修司フィルモグラフィ
1960
年 16ミリ映画『猫学(Catllogy)』を演出。映画『乾いた湖』のシナリオ(篠田正浩監督)

1962年 TVドラマ『一匹』、唐十郎出演。実験映画『檻』を監督。
1966年 TVドラマ『子守唄由来』で芸術祭奨励賞。
1967年 演劇実験室「天井棧敷」を設立。映画『母たち』ヴェネチア映画祭短篇部門グランプリ。
1968年 羽仁進監督の『初恋地獄編』のシナリオ
1970年 実験映画『トマトケチャップ皇帝』製作。
1971年 ATG映画『書を捨てよ、町へ出よう』を監督。
1974年 脚本・監督した映画『田園に死す』芸術祭奨励新人賞。実験映画『ローラ』『蝶服記』『青少年のための映画入門』など製作。
1975年 『田園に死す』をカンヌ映画祭に出品。映画『迷宮譚』で、オーバーハウゼン実験映画祭銀熊賞。
1977年 映画『ボクサー』を監督。実験映画『マルドロールの歌』『消しゴム』『書見機』リール国際短編映画国際批評家大賞。『消しゴム』『二頭女―影の映画』を完成。
1978年 フランスのオムニバス映画の一編『草迷宮』を監督。『サード』の台本書く。
1980年 仏映画『上海異人娼館』を脚本・監督。
1983年 『さらば箱舟』(遺作)公開。

 金井勝は、微笑う銀河系三部作が決定的な作品です。以降、ドキュメンタリーなどを撮っているようですが、私が見てないこともありますが、評判を取るほどの作品ではありませんでした。
今、見ると当時の時代背景から随分政治的です。寺山修司の実験映画もそうですが、映像で遊ぶというよりも政治的なメッセージが入っていて、当時と今とで、こう時代が変わると、メッセージ自体が古ぼけてしまい映像表現の陳腐さが目立ってしまうような、ちょっと残念な形です。
天皇制への批判などは、ATGにおいても難しかったので、入れたいのは分るのですが、天皇制つまりは日本の現状への批判は、今日から見れば、あまりにも頭でっかち、共産党の言い分だけを聞いたものでしかなく、ではどうすればという話にはなっていない。その辺りが難しいところです。

       実験映画   〜日本〜

実験映画を紹介することはひどく難しい。この時代に様々な人間によって大量の映像が作られていますが、今日、残っているというか、映像として見れるものは、わずかなものもしかありません。今でも影響力を残している作品は少ないということです。大変残念なことに感激した作品は少なく、何だかよく分らないままに見たものが多く、記憶も曖昧です。このため取捨選択が難しい。まず、このリストを見ていただきたい。1976年の映像のフェスティバルで、当時の実験映画、アンダーグラウンド・フィルムの有名人が並んでいます。もちろん、ここに並んでいない人も沢山いますが、とりあえずの参考にしてください。

                    

とりあえず、ここでは有名な映像作家から取り上げます。

松本俊夫
 松本俊夫は数多い実験映画の映像作家の中で抜群の知名度があり、評価もされてきた人です。ATGの作品として上映された「薔薇の葬列」(69年)は無名のゲイ、ピーターを起用し、彼をスターダムにのし上げた作品です。また、「修羅」(71年)は興行的なヒットはしませんでしたが、江戸歌舞伎の鶴屋南北の残酷劇を映像として表現し、中村錦之助の影に隠れていた弟の中村嘉津雄、状況劇場の若き唐十郎を配したキャスティングも、なかなかのものがありました。実験映画ではない劇映画においても非凡な力を見せ付けたのです。「16歳の戦争」は73年の作品ですが、当時、無名の新人であった秋吉久美子を起用しました。これもヒットはせず、お蔵入りし、幻の作品とも言われました。

    


金井勝





寺山修司
 解説の必要もないほどの有名人ですが、映像の実験としては、先行する何本かの作品はありますが、トマトケチャップ皇帝が最初の作品だと思います。ビデオでも最初に収録されています。代表作に近い扱いです。寺山修司実験映像ファイルとしてDVDでも発売されています。先にもふれましたが、今見ると、これらの一連の作品は映像としても、主張としてもチープな感じで、海外でも受賞はしていますが、残る作品とは言い難い。
むしろ劇映画の「田園に死す」の方が寺山さんの情念が込められているという意味では、はるかに優れていると思います。寺山修司は他に映画の原作や脚本を提供しているものが多くあり(サード、ボクサーなど)、非常に優れたものになっているものが多くあります。映像作家として、あるいは映画監督としての彼の力は、私が言うのは何ですが、非常に優れているとは言い難いが正直なところです。興行的な成功という意味でも田園に死すは、まぁ、それでも客が入りましたが、他は厳しいものがありました。高名なるが故に失敗作と罵られ、特に晩年の上海異人娼館などについては限界説が多かった。








書を棄てよ町へ出よう


ATGの作品を紹介します。

書を捨てよ町へ出よう 

 田園に死す


初恋地獄篇                                サード

これは一般映画ですが。


若松孝二
Wikipediaのピンク映画から

1961年、新東宝倒産により、大蔵貢が大蔵映画を設立。また、新東宝関西支店の有志が新東宝興業(現在の新東宝映画)を設立してピンク映画界の二大会社が成立する。また、一般の劇映画を経験した監督やスタッフが次々に進出し、若松孝二監督の様に才能のある人材が次々にピンク映画に参入してきた。特に若松は「若松プロ」を設立し、ピンク映画というよりは一種の芸術作品として問題作を発表し、ピンク映画の価値を高めた。

今の時代から見ると、こういう書き方なんでしょうが、若松孝二が有名になるのは、「壁の中の秘事」がベルリンだかの映画祭に出品され、賞をもらうというような名誉な話ではなく、上映禁止騒ぎが伝わって、誰があんなエロ映画を映画祭に持っていったんだ、日本の映画界にとって非常に不名誉だという騒動でした。当時はピンク映画とも言われずに、エロ映画と蔑まれ、一般の映画の2段、3段低いものとして見なされ、まともな扱いではありませんでした。当時、ピンク映画はピンク専門の映画館で上映され、場末の飲み屋が立ち並ぶ場所にあって、酔いに任せて入るか、性に興味を抱いた学生が年齢を偽って(18歳未満禁止)何人かが連れだって入るか、営業のサラリーマンが時間潰しに入る所か、肉体労働者が暇つぶしにするかでした。女の人が入れる雰囲気はまったくありませんし、女性が興味を抱くような作品は1本もありません。やがて日活が行うロマンポルノとは、格段に違うものでした。
このような映画の中で若松孝二が特別であったことはありません。確かにピンクの黒澤と呼ばれていたことは確かですが、だからと言って、当時、若松孝二を高く評価した人間は、多くありません。映画評論家の中ですら、1,2人でしょう。芸術作品だなどと欠片も思われたこともない。あの時代にピンク映画を評価すること、評論すること自体がスキャンダルというか、あんな映画を見てるのかと、蔑まされることだったのです。現在、高く評価されているのが不思議なくらいです。Wikiでは沢山、観客を集めたとも書かれていますが、それは内容というよりスキャンダルから始まったことだったと思います。ピンク映画を観る観客はエロを期待していたのですから、若松孝二のサディスティックな映像表現や政治的なメッセージは、あの時代においてさえ、多くの客を集めることはありませんでした。

しかし、ATGで「天使の恍惚」が作られるなど、この時代を代表する映像作家です。特に足立正生や大和屋竺を見出し、活躍させたことは大きい。天使の恍惚は72年。右のチラシも72年です。既に回顧されているのは、いかにピンク映画が消耗品と見なされていたかが分ります。ここに並ぶ向井寛、新藤孝衛とかは、今、忘れ去られています。




犯された白衣

三島由紀夫
三島由紀夫を映像作家にするのは乱暴なのでしょうが、自身が監督した幻の作品と言われたものが「憂国」です。2.26事件を題材にした三島由紀夫ふんする青年将校の自決と、妻の自害を扱っています。その生々しい映像は、三島事件を想起させるものとして、遺族によって焼かれ、近年になってネガ・フィルムが発見されDVDになっています。映画的にはヒットはしませんでした。公開以降で再映されることもなかったように思います。当時としてはグロでしたから。

『グラフィカ 三島由起夫』(新潮社)
映画評論