70年前後、成毛滋はそのギター・テクで非常な人気を拍しました。この3枚のチラシは72年です。成毛がバンドを組んだ仲間には、柳ジョージ、つのだ☆ひろ、ミッキー吉野、柳田ヒロの名前が見えます。フライドエッグには若干17歳の高中正義が加わったと書かれています。加山雄三もそうですが、この時代のギター・リストは値段が高いので良家のお坊ちゃんですな。当時もそれが話題の一つでした。

いつの間にか名前を見ることもなくなり、2007年に亡くなられたことを知りました。

Rock(ロック)-前史


 日本のロックとは何かを70年前後は、大いに迷走していたように思います。当時、アメリカのハードロックが全盛時代です。大音量のインスツルメントで若者を惹き付ける魅力を持ったバンドは日本にはなく、若者の多くは欧米のバンドを聴いていました。プログレシブロックにおいても欧米しかないという感覚です。私も、その内の一人で、日本のロック、何それ、そういう感じでした。

 日本の戦後のポピュラー音楽はアメリカからの輸入文化でした。ジャズ、ポップス、カントリー、ハワイアンも区別なく、洋楽で一くくりして取り入れてきました。中でも大きかったのは映画音楽でした。それ以外ではアメリカで流行した歌を日本語混じりの英語で、そのままなぞって歌うことが昭和の40年代まで続いていたのです。江利チエミ、雪村いずみはもとより、中尾ミエ、尾藤イサオ、ザ・ピーナッツなどが並んでいました。彼らの前のミッキーカチス、小坂一也などだ代表したロカビリーしかり、プレスリーのコピー然り、それらが隆盛を極めていました。エレキ・ブームが生まれたのは昭和30年代の半ばくらいだったように思います。ベンチャーズが非常に大きな人気を呼びます。
 私は昭和20年生まれですが、私らの頃は生ギターがブームの主流でしたが、以降の世代でエレキ・ブームは大変なものがあり、ギター・テクを競う風潮ははなはだしく、ロックの内なる叫びを表現することよりも、テクニックが如何に優れているかがあった。寺内タケシ、加山雄三が日本での代表でした。この状況は世界のロック・ミュージックの動向と、大きな落差がありました。ただひたすらコピーし続けていたツケが出て、やがて苦闘していくことになります。
 ひたすらアメリカのコピーから変化していくのは65年を過ぎてからで、66年にビートルズが来日する前後に、ビートルズを真似たGSグループサウンズが、芸能プロダクションを中心に形作られます。当時、人気のあったモンキーズの日本版でした。GSは欧米の曲を歌うのではなく、日本人の作詞、作曲であったことです。それでもスタイルはビートルズのコピーでした。ブルー・コメッツやタイガース、テンプテーションなどです。ここでもギター・テクは重視されました。
 GSの止めを刺したのはフォーク・クルセダーズの登場であったと思います。「帰ってきたヨッパライ」(68年)の大ヒットは新たな時代の幕明けを告げていました。

 70年頃に注目され人気を集めたのは、前の時代からの流れで音楽性よりも、優れたテクニックで欧米のロック系の音を弾きこなすミュージシャンでした。

 パーカッション奏者であるツトム・ヤマシタ(山下勉)は異色の存在です。現代音楽というジャンルから出発はしたのだけれど、この2枚目のチラシのようにロックバンドを結成して、現代音楽から抜けます。当時は音楽に関心がある若者には、優れて知られていましたが、次第にずれていったような気がします。ロックなら、人気の点で欧米のバンドとは比較にならない。ロックの持つ、基本的な社会的な訴えや、心を慰める優しさという面で、テクニック主体では難しかったでしょう。プログレッシブ・ロックという面では、より先端的な立場にあった現代音楽出身の彼に、独自のプログレッシブ・ロックを形成するところまでには至らなかった、むしろドイツのクラウス・シュルツがアルバム作りに参加したことが話題になる、もしかすると間違っているかもしれませんが。ただ、一般的な成功はなかったことは事実だと思います。なかなか良かったのですが・・・。

ツトム・ヤマシタ 1971.1 
Stomu Yamashta - Madness