お客を見ない

客層の不在


 客層の概念くらい、今日のスーパーに欠けるものはないだろう。確かに本部バイヤーのレベルでは、その基本形をいわゆる標準家庭、子供と同居する夫婦を想定した品揃えなり、購入単位(一パックの量や個数)を想定しているが、それはあくまで理念でしかない。
 現場は一人の客も逃さないような形の品揃え、何人家族でも耐えれるような容量設定を行っている(5人分ならば、2人分と3人分を買ってくれという形)。
 今日、専門店が減少する中、零細な飲食店は、しばしばスーパーから食材を調達するようになっているため、家庭向けとは思われないような商品までスーパーに並び始めている。
競争の激化が、ますます客層を不明にしている。ライフサイクルというマーケティングの概念も、スーパーの店頭には何も反映されなくなった。
 こういう抽象的な概念を商売の前線で考える習慣がない由縁である。このことがスーパーをますますわけの分からない万屋(ヨロズ屋)に追いやり、コストを増大させる大きな要因になっている。
 原点に戻ること、想定された客層以外は拾わずに、周辺に多様な小売業を族生させるべきなのである。単独で大輪の華も良いが、それは決して寿命を延ばすことも、新たな蕾を育てることにもならない。単店ですべての客を集めることは、一時はできても、持続できず、ライバル店の出店等を契機にしてやがて衰退に向かうことになる。その点の意識は競争の中で見えなくなった。



地域社会との希薄さ

 時折、珍しい歳事が各スーパーで取り上げられ、どこの店でも同じ催事で使う商材が売られ、しかし、翌年にはほとんどなくなってしまうものがある。これはスーパーの企画した催事というより、納入業者の仕組んだ催事なのだろう。
その一つにハロウインがある。南瓜を切り抜いた、お化けのお面をかぶって子供達が近所の家を訪問し、お菓子をもらう欧米の代表的なイベントである。しかし、こんなのものは、まったく日本では普及していない。何故、普及しないのかのページがあったので参考に

 七草粥も、こういうものの典型であるだろう。

 催事と地域社会とは深く結びついている事が少なくない。多くのチェーン・スーパーは地域社会と店とが結びつくのを嫌がる傾向がある。協力しないが、売上だけはもらう、そんな姿が見え隠れする。他店との競合が激化していく中で、地域と無関係に商売することが、どれだけ続けられるのだろうか。地域と、どのように向かい合うのか、地産地消あるいは地場野菜の販売を進めながら、地域と没交渉、知らぬ存ぜぬでは話が通らない。何よりも顧客を知るという努力を店舗がしないことが、最大の問題であるという認識が本部にないのだろう。


顧客への情報発信

 顧客への情報発信とは、商品自体にある。商品の鮮度を含めた品質、そして食べる時に注意すること、最近では廃棄の仕方も重要である。それがすべてである。
それが商品のパッケージやPOPに書かれていなければならない。それ以上の、産地や生産者の顔は、ある意味で余計である。生産者の写真を見て、どこまで信頼度が増すのであろうか。欧米の真似なのだが、どこか違っている。多分、生産者と消費者との向き合い方が違っているのだろう。

 美味しかった時に初めて、人は、あれこれは誰が、どこで、どうやって、と興味を抱く。あるいは逆に、期待された味でなかった時、クレームに結びつく顧客は多くない。二度と買いたくない。それが分かる指標を求めている。そしてそういう知識も、すぐに忘れてしまう。繰り返し、あの味を想起させる、何か、こそが情報発信なのである。

 スーパーに行ってまで勉強しようなんていう人は誰もいない。余計なことはコストがかかるだけである。




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