最優先順位の見栄え

見栄えがすべて


 セルフサービスという、顧客が並んでいる商品から選ぶ方法であるが、メーカーや問屋の立場からみると、POPやシールもあるけれど、選んでもらう最大の条件は見栄えになる。
売場全体が見栄えというか、雰囲気に大きく左右される。このために照明や床、天井、エントランス(玄関)などに細心の注意が払われ、資金があれば店舗改装も頻繁に行わなければならない宿命を背負っているのがスーパーという業の特異性である。
 同時に、いかに良く見せるかの研究も、業者を鞭打たせる、業者の方も商売だから様々な提案がスーパーに持ち込まれる。生鮮品の売場が典型であるが、いかにも美味しそうな、光の当て方、みずみずしさを出す工夫がされている。家に持ち帰ってみると、全然、色合が違っているのを体験される方も多いだろう。
青果物ではバラ販売が相当な割合を占めるようになっている。バラ販売の普及によって、同じ大きさの野菜や果物が要求され、以前よりも出荷者側の負担は増大している。本来はパックする容器代を節約するものであったはずが、より厳しい同じ大きさ、同じ熟度などの要求によってコストが増大している。極めて不合理な販売姿勢がある。
 スーパーは人手をかける手間を惜しんで、少しも消費者教育を行わない。消費者は選び方も、どれが美味しいかも分からないので、ただ色が良いもの、少しでも大きいものを選んでいるだけなのだが、これが生産者に大きな負担として返ってきてしまう。
スーパーは、トータルのコスト、生産者や消費者の負担を考えない自分勝手な販売をしているのが実態である。大変、残念な話だが欧米のスーパーは違っている。こんな不合理は通用しないのである。


スーパーにおける買い物

 フルッサーの「テクノコードの誕生」の中にスーパーについて面白い文章があったので紹介する。
      

 スーパーマーケットでは、人々は広く開かれた入り口から吸い込まれてテクノ画像(案内板などのこと)の迷路に沿って進む。大きく開いた入り口は市が立つ広場であるように錯覚させるが、それが錯覚に過ぎないのは、拡声器が吠え立てる中で、いかなる種類の対話が成り立たないという事情ばかりでなく、何よりも勝手に出られないという事実である。スーパーマーケットは鼠取りの罠なのだ。外に出るためには行列に並んで、囚われの身から開放されるためにレジで供物を払わねばならない。だからスーパーは本物の市場の反対なのだ。スーパーは情報の交換を許さず、情報を一方的に注ぎ込む。スーパーは公的な空間ではなく牢屋なのだ。
 スーパーの買い物は次第に苦痛になってきている。そのために手を替え、品を替え、イベントで盛り上げようとしているが、それも飽きてきている。買え、買えという強迫、大衆というお仕着せ、知らない商品を並べることで無知への嘲笑、愚弄。そのことを最も知らないのは、スーパーの経営者だろう。


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