あぶく銭〜F1サーカス〜

 1977年、富士スピードウエイでの事故により、 F1レースが途絶えていたが、1987年、 鈴鹿サーキットで開催され、大きなブームがやってきます。
鈴鹿サーキット
  オートレース・ブームの到来と自身の趣味もあったのでしょうか、大分県上津江村にオートポリスが一不動産開発会社がレース場を建設します。Wikiから、『元々ゴルフ場建設予定地に、不動産開発業者で、オートポリスの運営会社である「日本オートポリス」の社長・鶴巻智徳の指揮により、バブル景気全盛期の90年にオープン。鶴巻は、1989年に東京全日空ホテルで行われたオークションで、パブロ・ピカソの「ピエレットの婚礼」を5160万ドルで競り落としたことで世界的に有名となっていた。
 1991年3月には、こけら落としイベントとも言える全日本F3000選手権が開催され、決勝日には7万人を超える大観衆が押し寄せ、スタンドを埋め尽くした。10月にはオートポリス初のFIA公認世界選手権レースとなるスポーツカー世界選手権(SWC)の最終戦が開催され、F1デビュー間もないミハエル・シューマッハも出走し、優勝を飾り』(一部省略)、F1の誘致を目指しますが、92年に経営する日本オートポリスが倒産します。この開発はバブル時代にふさわしい規模を持つもので、2万人の観客を収容できる最終コーナースタンドや、コースを見渡せるわずか28室の高級ホテル「ベラ・ビスタ」、美術館、3回ワールドチャンピオンとなったネルソン・ピケの博物館、カートコース、ヘリポートなどを備えたものでした。他にリゾートホテルも建設予定がありました。

 
 今は亡きベラビスタだそうです。ARCHITECTUAL MAPから画像を拝借しました。右がベラビスタで左はラウンジなどだそうです。
 

 レース場まで作るのは極端ではありましたが、バブルの時代、カーレースのスポンサー、F1のサーキットに上がった4人のバブル紳士が、飛ぶ鳥を落とすような風情を見せます。
レイトンハウス(マーチ)の赤城明
○フットワーク(アロウズ)の大橋渡
○ローラ(エスポ・ラルース)の伊藤和夫
○ミドルブリッジ(ブラハム)の中内康児

いずれもヨーロッパのレーシングチームを買収して、F1に参入します。

チームのことも、エンジンのことも、私にはよく分からないので、リンク先と、簡単な内容をここでは紹介します。
B級F1チーム情報http://www.gem.hi-ho.ne.jp/oono/b-team.htm

Leytonhouse (1991-1996)
日本人オーナーとして、もっとも早くF1サーカスに乗り出したのは、レイトンハウスのオーナーだった赤城明。バブルの象徴的な存在。
全日本F3000でスポンサードしていたイワン・カペリがマーチでF1に参戦をきっかけにマーチのスポンサーとなり、90年完全買収。後にウィリアムズ、マクラーレンで空力の天才として活躍するエイドリアン・ニューウエイの開発したマシンは、ノンターボエンジンながら日本GPで1周だけとはいえトップを走行。
しかし、バブルの崩壊、91年9月、富士銀行の不正融資事件に連座して、詐欺の疑いで逮捕され、チームは手放された。

 赤城は、1944年に、中国の河南省開封市生まれ。父親が社長を務める建財という不動産会社で常務で、退社。81年、退職金の五百万円を元手に新会社を設立。六本木界隈の物件を扱い、着々と地上げ屋としての実績を重ねていく。彼の名を一躍高めたのは、地価高勝がピークに達した八七年に、青山の物件を買い取りインテリジェントビルに建て替えたことである,
 チーム名は、社員の提案で、英国のレイトンという地名をもとにレイトンハウスとすることにした。チームカラーは、サーキットで目立ち,他のレーシングチームが使っていない色調ということで、マイアミブルーが選ばれた。.と同時に,モータースポーツをビジネスに結びつける方法を検討し、レース場に集まってくるファンを対象にしたファッションビジネスを展開。ブランドイメージを確立し、新たな事業領域を作り上げた。実力派ドライバーのおかげぞ、チーム結成後二年足らずのうちに、レイトンハウスの名は広く知れ渡るようになった。

                 
 しかし1991年、富士銀行赤坂支店を舞台にした6200億円の不正融資事件に、赤城は詐欺などの疑いで逮捕され、懲役10年の判決を受けて赤城の夢は消えます。
イタリアのイバン・カペリと赤城

Footwork (1990-1993)
 89年12月に,英国のアロウズを買収。と同時に、80億円とも90億円ともいわれる契約金を払って、4年間にわたるエンジンの独占契約をポルシェと締結。さらに年間50億円といわれろエンジン開発費の五分の二をフットワークで負担。92年を目途に、レースとビジネスの双方で、世界的な勝利を納めると豪語して、F1関係者の度胆を抜いた。
 しかし、実際に動き出すと、90年8位、91年17位と、前評判ほどの成果を挙げられず、92年にはついに予備予選組に転落してしまった。92年には、70億円近い資金を投じて、無限のエンジンと鈴木亜久里の純和製テームで勝利を目指すが、エースドライバーのミケーレ・アルボレートがチームを引っ張ったものの、亜久里はエンジンなどにトラブルを多く抱え、入賞することが出来なかった。
 1993年にはシーズン途中でマクラーレンからアクティブ・サスなどのハイテク装置を購入し、戦闘力を増したが、レースではトラブルが続出してなかなか結果に結びつかなかった。そしてこの年の末に、日本の不景気の影響を受けて、フットワークがスポンサーをおりる。
 チームオーナーだった大橋渡は、1947年、兵庫県加古川市生まれ。父親の賢次が興した日本運送に入社。79年に常務に就任。81年、中堅の運送会社七社が共同で全日本流通を設立した際、社長に。北海道の夕張メロンや新巻鮭を宅配する「うまいもの便」であてて、ヤマト運輸、日本通運に次ぐ業界第三位の宅配便業者となったが、バブル崩壊以降の経営不振により、2001年、民事再生法の申請にいたる。

大橋渡

Larrousse・LOLA(エスポ・ラルース・ローラ) (1962-1997)
 
バブル崩壊とともに、F1どころでなくなったのが、90年のグランプリで、ラル−スの車体に「GEO」のマークをつけて走らせていたエスポ社長の伊東和夫である。彼の特長はあくまでも鈴木亜久里の個人スポンサーに徹し切ったことだ。
 有名なのが小遣い一千万円事件。念願のF1出場を果たした亜久里に対して、「どれくらいの小遣いをやればいいのか」と訊かれたF1関係者が、一年間のつもりで「一千万円」と答えたところ、毎試合、一千万円ずつ渡していたという。亜久里に対する思い入れがそれだけ深かったのかもしれないが、それにしても羽振りのいい人だった。
 しかも、89年の一年間、亜久里の予備予選落ちが続くと、彼のためにラルースの株を取得し、新たなチームまで用意してやっている。二十億円近い出費にもかかわらず、「亜久里の夢が実現ぞきるなら安いもんだ」とうそぶいていた。
 伊東和夫は、46年、東京・板橋区の生まれ。サラリーマン生活を経て、71年日精鋼機(現・エスポ)を設立。工作機械の製造販売を始める。翌年、専務に就任。事業が軌道にのると,SCCN(スポーツカー・クラブ・オブニッサン)というレーシングチ−ムに所属して、国内レースに自ら出場。オイルショックを機に、本業が傾き、75年に、不渡りを出して倒産。再出発したのが七九年。池袋や新宿などの繁華街で不動産の売買に手を染め、地上げ屋として徐々に頭角を現してくる。加速がつくのは、80年代なかばの地価高勝の時期である。不動産売買で得た資金をもとに、株の買い占めに走り、千代田機械貿易や東和サン機電、シントムなどの筆頭株主に名を連ねていった。さらに、ビデオレンタル事業にも進出。大手チェーンを吸収して、最盛期には業界第三位の実績を誇るまでになった。
 しかし、90年後半から、バブル崩壊。結局レイトンハウスと同様、チームはバブルと共に消滅した。

                                  

BRABHAM(ブラバム)(1962-1992)
 1990年、中内康児率いるミドルブリッジレーシングが運営に当たり、創始者の三男デビッド・ブラバムがデビュー。1991年にはヤマハ製エンジンを搭載したものの、非力な上に重量が嵩みマシンバランスが悪かったことなどから総獲得ポイントは3とさしたる成績を上げられず、バブル景気の崩壊もあり日本企業スポンサーの多くが撤退した(当時のスポンサーは、オートバックス、三越、マドラス、山善)。