あぶく銭〜クルーザー/メガヨット〜


 この時代の海への指向というのが、どこでどう始まっているかは、分からないのですが、80年代からサーフィンブームがあり、水中の夢幻で書いたスキューバダイビングの流行があり、これらが若者達中心のものでしたが、大人達もまた、富の象徴としてプレジャーボートを持つ、より進んでメガヨットに乗船してクルージングや釣り、果てはヨット上でパーティをすることを目指す動きが出てきます。欧米の大金持ちの趣味に接近しようとする試みであったのでしょう。富の象徴という感覚です。007を始め、映画で豪華船でクルーズする姿に憧れたのでしょう。まさに身の程知らずなのですが、この時代の雰囲気を反映するものです。
 中でもクルーザーを持つことは比較的気軽でしたし、車や家、別荘とは違った、ちょっとしたステータスでしたから、小型のクルーザーが猛烈な勢いで売れ始めます。小型といっても1500万円くらいですが、バブル時代はそんなものは金ですらない単位です。
 統計で押さえておきましょう。1970年当時、我が国のプレジャーボートの保有数は約8万隻、それが90年には約28万隻(ヨット5万4千、モーターボート21万4千、ゴムボート1万2千)に膨れ上がっていました。運輸省の将来予測では21世紀までに40万隻に達するだろうと、当時は思っていたのです。

           

 クルーザーの大繁殖により、今度は繋留するマリーナの不足が目立ち始めます。90年当時の保管可能隻数は5万隻分しかなく、公共マリーナの収容能力は1万7千隻でしかありませんでした。運輸省ではMarine99計画で、2000年までに24万隻分のマリーナの整備が必要と発表していたのです。ここにバブルの準備で書いたウオーターフロントが係ってきます。
 90年当時、マリーナの数は378箇所、公共マリーナは40箇所しかありませんでした。このためにマリンスポーツのメッカである湘南、特に逗子マリーナ、葉山マリーナの繋留費用は当時、1億円ともいわれました。大半のヨットやモーターボートはマリーナではない港地域や海岸や河川に係留、または陸上に置かれる放置艇でした。


  
逗子マリーナ
 今は水族館ばかりが有名ですが、93年に開場する八景島マリーナも全敷地面積24万uに、マリーナに7000u、500隻を係留する公共マリーナとして非常に注目を浴びていました。
横浜八景島

 全国的にマリーナへの関心が高まり、魚が資源枯渇や漁民の高齢化で、寂れた漁港などで、港の活性化を求めて建設ラッシュが起きてきます。92年2月号の月刊レジャー産業には、八景島以外に、首都圏で計画されているマリーナとして、横浜市金沢貯木場マリーナ(15ha、1000隻以上)、横須賀市SHIリゾート川間マリーナ(3ha、小型桟橋10基)、相模リバーサイドマリーナ(8ha、ヨット100隻)、東京夢の島マリーナ(23.7ha、640隻)、千葉名洗港マリーナ(23ha、1000隻)が紹介されています。このために下のような資料集も作られました。


 しかし、クルーザーくらい稼働率の低いバブル資産はなかったかもしれません。現在でも、全国のあちこちの港に、稼動しないクルーザーが繋留されています。その数、百万艘ともいわれています。
日本のマリーナ事情遍歴バックアップ逗子マリーナのバブル後の顛末は、こちらに「管理会社のマリンリゾートが西洋環境開発から離脱

メガヨット/スーパーヨット
 バブルの膨張は、クルーザーに飽き足らない人達を、より大型で高級なメガヨット、スーパーヨットと呼ばれる舟に引き寄せていきます。月刊レジャー産業では特集を組んでいますが、実際にどれだけの購入者がいたのか、何隻ぐらいあったのかは分かりません。

 さすがに所有まではできないけれど、というニーズに応えるものだったのか、乗組員からすべてを貸し出す、借りきって楽しむというのもあったようです。バブル崩壊後に倒産・吸収されてしまった大手GMSのマイカルが運営したもので全長35mの大型艇1隻と15mの2隻を所有し、30社を限定した会員募集を行い、入会金3千万、預託金7千万円、年会費300万円だったそうです。
月刊レジャー産業資料1992.2


 船上パーティにいるのが全員欧米人であるというのも、実にコンプレックスの裏返しのようですが、このヨットブームは、アメリカズカップにおける日本チームの参加、活躍と重なり合う部分があるのでしょう。

 注意していただきたいのは、月刊レジャー産業の発行年です。既にバブルのピークは過ぎています。この数年後に起こったことは、想像するに、惨憺たるものであったでしょう。