あぶく銭〜受験・就職・ボーナス〜

<受験>
 私が池袋に事務所を構えた頃、立教の試験シーズンは立教通りは歩けませんでした。おびただしい受験生に溢れ、歩行者通路は人で埋り、案内の学生、パンフを渡すアルバイトがどれほどいたのか。三方向に分けて入場制限していました。当時は、文科系ならば10校受験するのは最低ラインで、15も、20も受験していた。受験料だけで100万円近い金がかかっていたのではないかと思います。

<就職>
 一方、バブル時代の就職戦線といえば、後にバブル採用と呼ばれるようになる大量雇用を各社が競い合い、新卒者の奪い合いが繰り広げられます。88年の有効求人倍率は実に1.53倍、超売り手市場であり、失業率は2.5%という史上最低の数字を記録するのです。
 学生達にとっては説明会に行くだけで内定がもらえる時代で、都内のどこからでも交通費が3千、5千円が支給され、帰りには会社の製品が袋一杯持たされる。交通費だけで結構な収入になった。内定を5つや6つもらえるので、会社側では囲い込みのために、教育研修の名の下に、リゾート施設に閉じ込め誓約書を書かせる事態になっていました。

GORO 1989.12.27号

 研修といっても、飲めや歌えの大宴会やら、すべて会社持ちのテニスだ、スキーとかいう遊びがすべてでした。当然、社員も卒業生も、いっしょに遊び惚けていた。
 それでも人気企業は大学生が殺到し、人気企業の一つである電通ビルの周りには十重二十重の列ができ、参加することに意義あり、なんていうわけの分からない動機で就職試験を受けていました。 その列の回りを中小企業の人事担当者が一生懸命、会社のパンフを配るという姿があったといいます。 また、人事担当から、百万円渡し、これで10人確保してこいというノルマが与えられたOBもいたといいます。卒業生を選別するというより、ご馳走して自分の会社に来てもらう努力をするのがOBの役割であったのです。 あいつはデキが悪いから野村證券にしか行けないなどといったことが業界最大手企業の大企業をネタにして言われるほどのものであったのです。就活でヒィヒィ言っている今とは、とんでもないほど違っていたのです。こんな時は2年もなかったと思いますが、過去にも、未来にもない光景です。

             
<卒業式>
 当時の大学の卒業式は、実に派手で、私立大学の有名どころでは、謝恩会を高級ホテルで行うのが当然という雰囲気でした。確か立教大学は椿山荘にある当時オープンしたてのフォーシンズホテルでした。いったい幾らかかったのやら。
児玉房子「千年後には」

フォーシーズンズ・ホテル

<ボーナス>
 当時の金融機関のボーナスは、入社2,3年の女の子で数百万に達し、メーカーに勤める父親のボーナスを軽く凌駕していました。父親の歎き節が聞かれたのです。10年選手くらいだったら、数千万円にも達していたでしょう。不動産屋なんか考えるだけでも恐ろしい。幹部クラスは軽く億になっていたでしょう。しかし、そんなにもらっても、この時代は使う方も派手でしたから、ちょっとした物、バッグでも数十万円、なんだかんだで買い物に百万円くらい使う。車でも1千万円くらい払ってしまう時代ですから、比較にもなりません。まさに湯水のようにお金が入り出て行った。
たのみこみHPより

<働け働け>
 もらう分だけ働けというのでCMもその調子でした。
             時任三郎
 1989年、リゲインは 「24時間タタカエマスカ?」 というキャッチコピーを生み出し、一世を風靡します。牛若丸三郎太 (時任三郎) というキャラクターで、様々なビジネスシーンで「24時間タタカエマスカ」を歌い上げたのです。この強烈なポジティブ姿勢、仕事をすればするほど莫大な収入を得られる雰囲気こそバブルそのものです。CD化されたCMソングは、オリコンチャートの3位を記録し、宴会ソングの定番になります。89年の流行語大賞の銅賞を獲得します。