賄賂/口利き/政界工作


 未公開株をばら撒いたリクルート事件、政界裏工作資金として1000億円前後が流れる佐川急便事件など、政・官を巻き込み、芸能人、暴力団に連なる、闇の世界が表の世界に侵食していきます。時の権力者、政界のドン、田中角栄の後を継いだフィクサーと言われた金丸信はこのスキャンダル塗れ、潰れます。

リクルート事件
 リクルートの江副浩正会長は、急成長する自社及び自身の政治的・財界的地位を高めようと、有力政治家・官僚・通信関連の便宜を求めてNTTの3つをターゲットに、子会社で不動産売買を行っていたリクルート・コスモスの、値上がり確実な未公開株を、贈ったことが事件のすべてと言ってよいでしょう。政治家の大口としては中曽根康弘が29000株、竹下登・宮沢喜一・渡辺美智雄・加藤紘一らが10000株前後、官僚では高石邦男文部次官・加藤孝労働次官、民間ではNTTの真藤会長・長谷川寿彦取締役ら100人前後に渡った。多い人で1億、少ない人でも数千万円の金を手に入れることになります。
 事件は、1988年6月朝日新聞が「川崎市助役へ一億円利益供与疑惑」をスクープ報道した。これによって、戦後最大の贈賄事件とするリクルート疑獄事件が始まります。
 当時導入が進められていた消費税とともに、国会にて野党による本事件への激しい追及が始まり、特に9月5日、この疑獄事件追求の急先鋒であった社民連の楢崎弥之助代議士にコスモス社の松原弘社長室長(当時)が500万円を持参し「国会での追及を中止してほしい」と申し出る。この一連のやり取りは楢崎が隠し撮りをしており、日本テレビで大々的に報道され、濡れ手に粟の政治家の金儲け、しかも、時のニューリーダー及びネオ・ニューリーダーと呼ばれる大物政治家が軒並み関わった事で、“リクルート・パージ”と呼ばれる謹慎を余儀なくされ、政界の世代交代を促すことになります。また、事件以降「政治改革」が1990年代前半の最も重要な政治テーマになります。
 事件は「政界ルート」「NTTルート」「文部省ルート」「労働省ルート」という4つの贈賄ルート、それぞれのルートで立件されますが、多くの政治家は逮捕から逃げ切りますが、中曽根内閣の重鎮で次期首相の最短距離にあったとする藤波孝生氏のみが貧乏くじを引かされる結末になります。また、東大在学時代から一代でリクルートという就職活動用の雑誌などのメディアを作り上げ、87年にはグループ全体の売上高3500億円、関連会社27社、社員総数6200人の、情報ネットワーク産業のリーディング会社を作り上げた立志伝中の人として、それまでマスコミに持ち上げられ続けた江副氏(当時51歳)の晩年も厳しいものになりました。
 この事件以後、リクルートは解体され、ダイエーの子会社になりますが、ダイエーの破綻に際して独立し、現在も情報産業の一角を占め盛んに事業展開していますが、江副氏は何の関係もない存在になりました。


リクルート江副社長 銀座8丁目の本社ビル

 リクルート事件から21年後に江副氏による『リクルート事件の「真実」』が刊行され、その内情が暴かれています。

東京佐川急便事件
 Wikipediaから抜粋します。

 1986年、暴力団稲川会会長石井進は当初、住友銀行による平和相互銀行乗っ取りを阻止する側として動いていたが、岸信介元首相からの電話により寝返り、乗っ取りに協力して多額の報酬を手にし、岩間カントリークラブ開発の所有権を得た。東京佐川急便社長渡辺広康は石井にトラブルの処理を何度も頼んだことがあり、その謝礼として石井のゴルフ場開発会社の資金調達のための銀行融資の際に数億円の債務保証をします。これが最初の切欠となったようです。
 1987年、自民党最大派閥の長であり、次期首相最有力候補の竹下登は、当時、右翼団体日本皇民党(稲川会系)による執拗な“ほめ殺し”攻撃を受け(皇民党事件)、金丸信に相談。金丸は稲川会とのパイプがある渡辺に仲介を依頼します。東京の高級料亭で金丸は石井に面会し、竹下への攻撃を止めるように依頼、その後、攻撃は消え、それに感謝します。

 佐川急便が労働法違反を繰り返しても罪にとわれず、配送区域も次々に認可を受けてスピーディに全国展開していたからくりには、自民党の議員へ多額の資金提供をする政界のタニマチとしての姿があった。渡辺は、金丸との仲介を通じて日本の政界トップと強いコネクションができ、おおいに喜んだ。

 東京佐川急便はさらに石井と岩間カントリークラブ以外に四方八方に作った会社にも、次々と融資や巨額の債務保証を行うようになっていく。石井は「経済ヤクザNo.1」と称されるようになります。

 バブル経済の崩壊により、稲川会関連の債務保証した巨額負債のため東京佐川急便は四苦八苦するようになります。石井は利息の支払いも滞り、更なる債務保証が足を引っ張り、東京佐川急便は倒産寸前となり親会社の佐川急便に吸収されることになります。

 1991年9月、稲川会の石井は病死。1992年2月、東京地方検察庁特捜部は渡辺社長・早乙女潤常務ら4人を特別背任容疑で逮捕。数千億単位で資金が闇社会に流れ、東京地検もヤミ献金や不正融資などの追及を続けたが結局、東京佐川急便からの政治献金の中で5億円の授受をしていた金丸信が同年9月28日に政治資金規正法違反で略式起訴されただけで、他の大物議員や闇資金ルートは解明されないまま事件は闇に葬られた。金丸は政治資金収支報告書への記載漏れを認め、略式起訴による5万円の罰金で済んだものの、世論が猛反発し金丸は議員辞職に追い込まれます。



                                         東京佐川急便 渡辺広康社長

(政界の権力構造の揺らぎ)

 佐川急便事件で引責辞任し、東京の政界から山梨にやや引き込んで、次を狙ったいた時に、東京国税局は、金丸信が日本債券信用銀行のワリシン(割引金融債)が税務申告していない事実から、1993年3月、脱税の容疑で逮捕。自宅の家宅捜索で、数十億のワリシンと1千万円相当の金の延べ棒が発見されます。金の延べ棒は、金丸が訪朝の際、金日成から受領した無刻印のものと風評されます。莫大な不正に蓄積された資金は、世間の憤激を買い、一部にあった同情論は消え、権威は地に堕ち、失意の中で96年に死を迎えます。この時、ワリシンの購入を勧めたのが福島交通の政商、小針 暦二です。小針は以前から日本債権信用銀行に食い込み、莫大な不正融資を得て、土地取引などに金を消尽します。小針との取引が日債銀や石川銀行の倒産に導く大きな一因になったと言われています。小針もまた金丸信より少し遅れて死にますが、遺族には一銭の金も残らず、福島交通も倒産に向かっていきます。政商といわれ、巨額な利権を手にし、無類の辣腕を振るった末路は悲惨なものになります。
                    政界のドン金丸信

 この事件により、田中派の後を継いで政界を君臨した竹下率いる経世会は、小沢・羽田を中心としたグループが経世会の覇権を握るのに失敗すると、自民党を離党し、政界再編に打って出る、今日にも続く巨大な影響を与えることになります。