肉体のエンタテイメント プロレス大相撲K1Jリーグメジャーリーグ

 プロレスに一大エンタテイナーが登場します。大仁田厚です。その過激なパフォーマンスが、大仁田劇場とも言われました。
Wikipediaからの転載です。

1989年7月2日に開催された「格闘技の祭典」にて、空手家の青柳政司と対戦した後、手元にあった全財産5万円を元手に自らの団体FMWを旗揚げ。10月6日に名古屋市露橋スポーツセンターにて旗揚げ戦を行う(対青柳戦)。1990年8月4日に汐留で行われたターザン後藤とのノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで一気にブレイク。この試合は東京スポーツ主催のプロレス大賞年間最高試合賞を受賞する。その後も川崎球場や西宮球場などの大会場で大掛かりなデスマッチを開催し続け、「涙のカリスマ」「デスマッチの教祖」などの異名を取った。
FMWの活動は流血やパフォーマンスが派手でデスマッチ中心であった為に「邪道」と呼ばれ、キワモノとする意見もあった。しかし、プロレスに興味の無かった若年ファンの底辺を広げ、大仁田のスタイルが対立概念となって、他団体の観客動員増にもつながり、業界全体への功績は大きかった(一部、省略)とされています。まぁ、真剣勝負を求めるファンからは毛嫌いされ、次に連なるプライド時代、K-1時代になると、引退したとはいえ、存在すら忘れられていきます。


大仁田厚  「必殺プロレス激本」双葉社より

 プロレスは以降、過激さを増していくことになります。

 しかしプロレスは次第に陰りを増していきます。世界一と呼ばれアメリカのマット界からの尊敬も集めていたプロレスは団体の乱立や騙しのビジネスと揶揄されるようになり、一部のマニア向けに、TV放映もなくなり、凋落していくことになりました。時代はK-1に向かって行くことになりました。

 一方、大相撲では、若貴ブームが、女性層に凄まじい勢いを持ちます。ここにはこの前の時代、小錦、曙、武蔵丸のハワイ勢が大相撲を制覇した背景があります。

  小錦                            曙                                武蔵丸
 圧倒的な肉体の迫力の前にふがいない日本勢と八百長相撲の横行に嫌気がさしていたファンに、先代貴乃花以来のガチンコ勝負に加えて、兄弟大関、兄弟横綱とあって爆発的な人気となります。連日のTVの出演で、アイドル以上の存在に駆け上がっていきます。この兄弟の結婚式は、兄、若乃花は念願のスッチー(フライト・アテンダント)、弟は宮沢リエとのドタキャン的破綻の後は、フジTVの女子アナというバブルぶり。相撲界では異例づくしの芸能人のオンパレードでした。相撲ファンは、やがて苦々しい思いで、この兄弟の事を見るようになっていきます。弟の貴乃花は優勝を重ね平成の大横綱とも評されましたが、兄の若乃花はお兄ちゃんと呼ばれて人気はありましたが、実力的には相当に落ち、横綱になれたのも、相撲協会の人気を当て込んだ営業政策といわれました。
 バブルが崩壊した後には、兄弟共にスキャンダルにまみれ、連日、ワイド・ショーのネタにされるという、持ち上げた後の陥落は凄まじく、以降は堕ちた姿を眺められるような形になってしまいました。
              貴乃花
  貴乃花の土俵入り

 やがて大相撲は朝青龍を始めとしたモンゴル出身者が上位を占める時代へと転換していきます。



 バブル時代は、以上の二つに代表されますが、この格闘技への関心は、やがてK−1に繋がれていきます。既にバブルは崩壊した後の95年、ただ、まだ余韻の残る時代です。それまでタイの格闘技としてマイナーで、ある種、トリッキーな存在であったキック・ボクシングが格闘技の世界チャンピオン、 世界で最も強い男の称号を巡って闘う場の中で浮上してきたのです。K-1人気は圧倒的なものがあり、ボクシングやプロレスリングの人気を低下させていくことになります。 K-1から数多くのスター、主に外国人ですが生まれてきます。端正なマスクと武士道的な寡黙な姿勢のアンディ・フグは初期のK-1人気を決定付けるものでした。他に初期K-1四天王といわれたアーネスト・ホースト、ピーター・−アーツ、マイク・ベルナルドがいます。
Andy Hug
 全盛を誇ったK-1も、K-1の生みの親である石井和義会長が2003年に脱税事件の責任を負って辞めた以降は急激に人気を落としていく結果となりました。80年代、猪木から始まったプロレスの隆盛と凋落、K-1の転落によりマット界は大きく地盤沈下していく結果となりました。


 サッカーはラグビーなどに圧されてメジャー・スポーツには成り切れないまま、長い時間がたっていました。 確かに東京オリンピックやメキシコ・オリンピックで釜本を中心にしたメンバーによって、その時はそれなりの評価はありましたが、全国民的な人気を拍することはなかったのです。 工業国ではサッカーは盛んだなぞというワケワカメの説もあったりしましたが、その程度でしかありません。 この流れに大きく棹さしたのが、やがてJリーグの育ての親といわれるようになる川渕三郎です。
 彼の努力によって、日本サッカーは、これまで学生、社会人というバラバラの組織が、子供からプロ選手までの一貫して養成する組織作りが行われ、これまでの社会人やプロチームが企業まる抱えの、企業の広告費で賄われるものでしかなかったスポーツを、地域を土台にしたプロチームとして作られ、世界に通用するサッカーチームが生まれてきます。その起点になったのが、日本プロサッカーリーグの発足でした(1995年)。川渕氏は、まだ、未熟な日本サッカーのために海外から外国人選手や監督を呼び集めます。往年の名選手が数多くいました。その代表がブラジルの名プレーヤーでJリーグの発足前には選手として、Jリーグ後は鹿島アントラーズの監督に就任したジーコです。サッカー人気は、プロリーグの発足によって爆発します。

                                                       Jリーグ開幕、満員のスタジアム 1993年
 発足当初の日本人のスターは川崎ヴェルディに所属していた三浦知良、通称カズです。南米仕込みのスピーディで、フォワードとしての決定力が魅力でした。本人の希望もあってイタリア・プロリーグにも参加しましたが不本意な成績で帰国しましたが、それでもスターでした。

 
三浦知良                     中田英寿
 カズはある意味では早過ぎたのかもしれません。Jリーグはまだ、未熟でした。カズに取って代わってスターになったのは中田英寿です。中田は国内にいた時には、ある種、変わり者というか、カズに対しても結構、無礼な発言があったりして、カズ・ファンには嫌われるところもあったのですが、1998年にイタリア・プロリーグに渡ってからの活躍は目を見張るものがあり、その後、続々と日本人選手の海外進出が続いていきます。

 Jリーグの成功は、他のスポーツのプロ化を引き起こしますが、これほどまでの成功はありませんでした。また、Jというタイトルをつけるのが流行り、J-Wave、J-POPなどが誕生し、広く使用されるようになります。


メジャーリーグ(野球)
 球団や監督との確執で、本人が仕掛けた部分もあったのでしょうが、野茂英雄はアメリカ大リーグ(メジャーリーグ)への挑戦をします。周囲はこれまで何人かメジャーに挑戦したけれど、惨めな失敗に終わったことから、冷ややかなものでした。野茂も中田と同じく、変わり者であり、大衆受けする人気者ではありませんでした。しかし、アメリカにわたって(1995年)から、彼の独特なトルネード投法でアメリカの強打者を三振に打ってとる活躍に日本中が熱狂します。野茂の一挙手一投足に関心が高まり、以降、続々と日本人のメジャーリーガー誕生の嚆矢となります。


 こうやって整理してみると、95年がエポックになっていることが分かります。何故、そうなのかは分かりませんが、バブル時代を経て何かが動いたのでしょう。スポーツで食べて行かれる時代が日本にも、とうとうやってきたのです。それだけ豊かになったとも、社会が安定化したとも、産業の時代の終りとも言えるのでしょう。右は97年にプロ第1号を宣言した外山英明選手。