金ピカの時代〜ギャンブル天国〜

 金余りは、空前のギャンブル・ブームをもたらします。 大型のゲームセンターが本格化するのも、この頃です。専用の椅子に座って操縦桿を握って対戦するタイプが人気を集め、競馬ブームも手伝って、カジノ式のゲームが隆盛に向かっていきます。16ビットマシーンが登場する、セガの全盛時代です。

 バブル期の直前、暴力団を背景にしたポーカー喫茶で、ポーカー賭博ゲームが密かに、そして相当に大ぴらに行われ、サラリーマンが数百万円の借金を負う事件が頻発します。あちこちで警察の手入れが入り、警察と暴力団のいたちごっこが発生します。 ゲーム10円、1円をうたい文句に顧客を集め、当れば一晩で50万、60万が転がり込むが、当らなければ驚くような借金を背負う。

ポーカー賭博のゲーム機。これは最近のもの(探偵ファイルより)                 10円ゲームの店がポーカーゲーム店

 バブル期はゲームセンターが歓楽街から、普通の町まで大量に出店し始めます。(写真は別冊宝島「歓楽街攻略読本から)

競馬ゲーム                                         ポーカーゲーム

競艇ゲーム                                           ルーレットタイプのビンゴゲーム


 歓楽街では、ゲームセンターからより洗練されたカジノバーが生まれてきます。1992年の頃です。武田徹「世紀末風俗研究」によれば、渋谷や新宿の繁華街のゲーセンからの転向組みが多かったようです。高級感溢れる感覚と賭博性が何よりも、惹きつけたようです。
カジノバー「ウオーカーヒル」

  カジノバーの中で直接換金できるようになって以降、爆発的に人気が上がり一挙に店が増えていきます。 大阪でカジノバーに警察の手入れが入ったことから、東京への進出が重なって、1995年には歌舞伎町を中心に東京にはカジノが260件あるといわれ、規模はともかく軒数では世界一を記録するのです。 それもつかの間に取締りの強化の仲で96年には100軒程度に減少します。ルーレットも流行りますが、ブラック・ジャック、バカラが人気で、この人気は地下カジノにも持ち越されていきます。


                                             
かわぐちかいじ「かぶ」

 これを受けてバブル期後期には舞台はより巨額な金が動く地下カジノに移っていきます。 新宿歌舞伎町には50軒、六本木・渋谷には20軒、都内に200軒を下らないとされ、20坪の小規模店でも利益は1〜4億円、 99年に摘発された新小岩の店では3ヶ月で45億円を稼ぎ出したといわれます。
かわぐちかいじ「獣のように」

西原理恵子
芹沢直樹「ルシフェルの右手」

たなか亜希夫「ボーダー」

伝説のギャンブラー 柏木昭男
 よく知らない話なので(ギャンブルで大勝した話は新聞記事にはならないし、週刊誌もすぐには追いかけられないからですが)、いくつかの記事を複数、合わせて書きます。

 柏木氏は、富士吉田市の貧しい家に生まれ、中学を卒業後、富士山の強力から這い上がったといわれ、23歳ごろから不動産や貸金業を経営。富士スバルライン建設ブームで大儲けをし、事業拡大していきます。 当時から強引に金を貸して担保になる土地を取り上げるなど地元では相当に悪評が立っています。 昭和60年に東京に進出、バブル期には首都圏で派手な土地買収を行い、新聞沙汰になるほどの悪質な地上げを繰り返します。 東京・文京区では、土地を売らない地権者の私道をふさぎ、神奈川県では幼稚園まで地上げして話題になり、何度も警察の不動産犯罪捜査のターゲットになっていたような人物です。 地上げなど不動産で儲けた金を湯水のように使ったバブル紳士の一人であり、その金の使い道がギャンブルであり、しかも、ほとんどが海外でのカジノであることに彼の最大の特徴です。

 ラスベガスのバカラ仲間は、「徹夜のバカラやブリッジの勝負が終わるとミスター・カシワギは、相手をブレックファーストに誘い、サンドイッチを音を立てて食べ、英語は一言も喋れないのに体ですべてを表現した。 バクチに熱中すると、百万ドルを床に落としても平気で、実に愛すべきギャンブラーだった。 しかし、いったん負けると人が変わった。負け金を値切る迫力は、言葉がわからないだけに迫力があった」と。
 ラスベガスでのニックネームは「ザ・ワリア(戦士)」。全米で五指には入るハイロウラー(賭金が天井知らずのギャンブラー)で、彼の名前を一躍、有名にしたのは米国の不動産王と言われたドナルド・トランプとの勝負です。
 ことは、柏木氏が オーストラリアのカジノで、4日間のバカラ賭博でカジノ史上最高の29億円の勝ちを上げたところから始まります。オーストラリアでの大勝を聞いた トランプ氏が自家用ジェット機で日本まで柏木氏を迎えに来ます。
勝負が行われたラスベガス・トランププラザ
 一回目の勝負は1990年の2月に行われ柏木氏の600万ドル以上(当時のレートで9億円程度)の勝利で終わりました。
二回目は1990年5月に六日間に渡って行われました。この時の勝負の条件が 
   ・1回の掛け金の上限は20万ドル(約3000万円).
   ・1200万ドル( 約18億円)のフリーズアウト協定(どちらかが1200万ドル負けるまで勝負を続ける)
 サムライ柏木は、グレーの5,000ドル(約75万円)チップを山と積んで勝負に臨み、勝負種目はバカラでした。激しく浮き沈みしながら、最後は、 1,000万ドル(約15億円)の敗北を喫します。その後も ラスベガス、アトランティックシティー、オーストラリアなどで億単位の勝負を続けていたようですが 彼の勝負は突然終了します。柏木氏が、1992年1月3日に河口湖町にある総工費35億円、工期10年をかけた総檜造りの柏木御殿でメッタ切りにされて殺されたからです。

 この突然の死で残した借金は、ラスベガスのヒルトンに五百万ドル、アトランティックシティーのトランプ・プラザホテルに四百万ドルと言われています。
 対決をしたドナルド・トランプ氏は、あの勝負を「この世界のベストだった」と振り返っている。 この一言が、最高の贈る言葉となったのでしょう。