スーパーカーのブームは何時からなのかを振り返ってみると、池沢さとしのサーキットの狼あたりが切欠になって子供たちが夢中になって追いかけ始めた辺りかもしれません。となると、70年代の後半でしょう。当時は暴走族が全盛の頃でしたから、高速で走るスーパーカーへの憧れが濃く、ブームの火付けを果たすことになった。それが週刊プレイボーイで復活するのが89年、バブルのまっ盛りという時代の雰囲気です。
池沢さとし「サーキットの狼」

金ピカの時代〜眼の快楽:モータースポーツ〜


 本田技研・ホンダのF1参入の歴史の中で、バブルの時代は第2期に当り、黄金時代を築き上げています。ホンダのF1での歴史はWikiのホンダF1を参考にしてください。また、第三期ホンダF1の陣頭指揮を執った田中詔一氏の「F1ビジネス」も参考になります。F1でのホンダのエンジンの強さが際立っていました。マクラーレン、ウイリアムズなどの一流チームにエンジンを供給し、ホンダ・マクラーレンなど、その名は光り輝いていました。高名なレーサーがホンダのエンジンに乗り、数多くの優勝をさらっていきます。セナ、プロスト、ピケなどなど。
   
 特にセナは88年から91年にかけて、出走80回のうちに優勝27回という驚異的な記録をマークするのです。わずか34歳で死んだこともあって、セナの人気は、日本でも、欧米でも、非常に高く、カリスマ的な存在として現在に至っています。写真集はもちろんのこと、小さなものでもお宝グッズになっています。
          

 
 フジテレビのF1の大衆化によって誘導された人気は、レーシング・カーでの広告価値を高め、レーシング・カーに日本の企業のロゴがべたべたと貼られ、サーキットの広告看板も2/3が日本の企業といわれたこともありました。いったいいくらの金が投入されたのか、もう誰にも分からない。 鈴鹿サーキットの人気が盛り上がっていくのも、この頃で、全国から集まるファンで、レースのある日の鈴鹿近辺は交通渋滞が激しく、トラックの運転手からは悲鳴が上がっていました。

 日本人レーサーといえば、中嶋悟と鈴木亜久里でしょう。モータースポーツ以外にもファンは拡大していきます。

  
中島悟                         鈴木亜久里

 鈴鹿サーキットといえばバイクもありますが、まあ、この辺にしておきましょう。

 ホンダのF1については西村幸祐氏が何冊かを出版しています。少しだけご紹介しておきますと、第1期のF1参戦は石油ショックにより、緊急避難的に撤退し、低公害エンジンCVCCエンジンの開発によって世界的な旋風を巻き起こし、日本の自動車がアメリカを押しのけて世界一の生産量を誇ったのが80年です。ホンダは83年にF1に復帰します。世界最強のターボエンジンを搭載したマシンの強さは抜群であり、その後の活躍は上記やホンダF1に詳しく書かれています。
 ホンダの後塵を被った欧州勢は、レギュレーションを変更してホンダに対抗します。その第1が燃料制限(195リッター)であったのですが、それさえも乗り越えて行きます。


 このモータースポーツ・ブームに、各チームにくっついてキャンペーンを行う若い姉ちゃん連中、レースクィーンが脚光を浴びます。ハイレグ、レオタードの水着スタイルでレース場を闊歩するので、カメラ小僧達が群がります。芸能人扱いというか、レースクイーンから芸能人になる飯島直子や岡本夏生が出て、大ブームが起きます。雑誌やら写真集が出版されるなど、ワケワカメの状況に至るのです。
岡本夏生

 F1人気はセナが94年に死んだことで急速に陰りを見せるようになります。ホンダの撤退がブームに終焉をもたらしたといえるでしょう。