バブルの前ぶれ〜首相の責任〜


 我が国は死んだ人には優しいというか、責任追及しないのだな、としみじみ思うのは、橋本総理のことです。バブルが破裂した後、「第二の敗戦」と呼ばれる敗北を被った当の首相の責任を一言も追及しないのだから。そしてバブル経済を作り出した中曽根首相への批判も、今では小さいものでしかない。

 
Wikipediaによれば、バブル景気とは1986年12月から1991年2月までの4年3か月間を指すそうです。体感的にはバブル景気はもう少し長いと感じます。また、不況が深刻化した後に、景気浮揚策として、凄まじい公共投資を行います。官の世界では91年からが本格的なバブルの始まりといえるでしょう。この時期の公共投資が国にも、県、市町村に莫大な借財を負わせ、七転八倒の苦しみに陥ることに、やがてなっていくのです。

 バブルの引き金はプラザ合意、1985年に先進5カ国が、為替レートをドル安に進めることに合意したものですが、プラザ合意のターゲットは、日米経済戦争を長期にわたって繰り広げ、膨大な黒字を溜め込んだ日本です。85年以前ですが、アメリカから飛行機などを購入して、その場凌ぎに精を出していたのですが、焼け石に水。プラザ合意を受け容れざるえず。合意後、いっきに円高に進み、1ドル240円が120円までいきます。

 当然のように不況になり、輸出企業は悲鳴をあげます。自民党政権は金利を下げ、内需拡大に一層の努力を傾けざる得なくなっていました。ともかく政府が率先して金を使え、貯蓄は悪だととなえる。闇雲な公共投資を行っていきます。不況は一転して未曾有の好景気に突き進んでいきます。87年にリゾート法が成立すると、全国の自治体が揃ってリゾート開発に乗り出す、凄まじい時代に入っていきます。

参考:中曽根首相と赤字国債依存の正当化
    地価抑制政策の不在


 その一方で、この円高によって、米国金融専門誌「アメリカン・バンカー」による世界銀行番付(上位500行)は、1985年末現在の預金残高(ドル換算)の第1位に、第一勧業銀行(当時:以下同)が前年に続いてトップの座にあることを発表します。トップ10のうち邦銀が7行を占め、2位に富士銀行、3位に住友銀行、4位に三菱銀行、8位に三和銀行、その他、13位に農林中央金庫、15位に日本興業銀行がランクインした。第一勧業銀行は、持ち株会社を含む総資産の比較(86年3月末現在)でも、米シティコープを抜いて初めてトップに躍り出たのです。
 同誌によれば、日本の銀行の躍進について、急激な円高・ドル安によってドル換算の預金高が膨張したほか、日本経済の着実な成長を背景に円預金高が同年中に10%増加したことが寄与した。
(アミーバーニュース)とあります。
 10年後の惨状を予想だにしない、我が世の春を謳歌したのです。

 注意して欲しいことは、当時、この好景気をバブルとは思っておらず、景気が一段落して、さてこの時期の景気のことを何と名前を付けようかと議論した時に、バブル景気という名前に大蔵省などが抵抗したことです。名前をつけようという頃は、景気は下降していたけれど、どうせすぐ上昇に向かうはずだと、神武、岩戸と続いた名前の、さあ何にしようか、そういう気分だったことです。バブル景気と本格的に言われるようになるのは、95年くらいではないかと思います。