いけいけドンドン経営

猛烈な不動産の暴騰の前夜、不動産転がしによって経営拡大を図る創業経営者はいきり立っていきます。まさに我が世の時代が来たと直感したでしょう。その代表格は、西武鉄道の堤義明であったでしょう。独特の節税、税金を払わない手法で事業拡大を図ってきましたが、リゾート開発を中心に、バブル期には一層の拡大に向かっていきます。最盛期にはビルゲイツを押しのけて世界一の金持ちにランクされるのです。
若き日の堤義明氏晩年の会長時代

西武グループがこぞってリゾート開発を行いますが、その主たる担い手はコクドであり、プリンスホテル。背後で支えるのが西武鉄道という構図です。ホテル、ゴルフ場、スキー場の3点セットが西武グループの最大の売りであり、多くの自治体を巻き込んだ開発が行われていきます。バブル絶頂期には西武ライオンズの優勝やアイスホッケーでの優勝など、数多くの栄誉があり、日本のスポーツ界に君臨します。
バブルが弾ける頃、少し手前で拡大を停止することで、次に述べる兄清二氏に比べて、即、アウトにはなりませんでしたが、長野オリンピックにおけるスキー・コースの設営には黒い噂が飛び交うなど、次第に威勢が衰えていきます。そして長引く不況が経営を追い詰め、総会屋への報酬支払いにより、墓穴を掘り、1兆2千億円の有利子負債により西武グループ解体に進んでいってしまいます。

西武ライオンズ所沢球場

兄、清二氏は弟に本家を取られた積年の思いを晴らそうと、この期に乗じて弟義明氏の牙城、リゾート開発やホテルの経営に乗り出していきます。清二氏は80年頃から時代の寵児であり、その独特の文化戦略によって、パルコなどの成功を生み出していました。それ故に義明氏に比べて、より一層、派手で華麗でした。その拠点になったのが西洋環境開発でした。その最初のど肝を抜く事業が、横浜インターコンチネンタル・ホテルの88年の買収劇であったように思います。その10年後には手放すことになりますが・・・。
堤清二氏
                         横浜グランド・インターコンチネンタル・ホテル

清二氏のホテル事業への執念は、次にホテル西洋銀座の開業があります。1泊40万円という恐るべき価格が話題を呼びます。


あぶく銭のクルーザーのところでも述べますが、海洋リゾートにも大きく手を伸ばしていきます。

芸術村をコンセプトにしたタラサ志摩

北海道ではサホロリゾートを手がけます。ここに掲載できないほどの量のリゾートがセゾングループによって開発されていくのです。このツケはセゾン・グループ全体に重く圧し掛かり、次々と事業売却を迫られていきますが、それは後の話です。

サホロ・リゾート

西武グループの歴史年表をまとめている方がいましたのでリンクを張っておきます。西武グループのバブル期の年表も保存します。(1985〜19891990〜1994リゾート計画

バブル時代を象徴する名だたる経営者の一人として、ダイエー創業者の中内功氏がいます。巨大なGMS、ハイパーマート、ディスカウント・ストアを次々に開発し、まさに不動産の力で金を借りまくり、全国に店舗を建設。ホテルを建設し、球団(ダイエーホークス)を買収し、ドーム球場を作り、堤清二氏の向こうを張るように地域開発にまで乗り出していきます。それがホークスタウンです。壮大な計画はバブル崩壊によって頓挫し、やがてすべてを失うことになります。

中内功氏ホークスタウン

千葉の閉鎖した店の写真を収集していた人のHPから

ダイエー千葉ニュータウン店                Dマート稲毛店                        ディー・ハイパマート酒々井店

いけいけドンドンの経営者は多いのですが、最後にあげれば、そごうの会長であった水島広雄氏でしょうか。駅弁デパートまで言われるような郊外のターミナルを中心に大量の店舗を展開、大阪と神戸、東京の3店だった老舗百貨店を、国内外40店舗を運営する百貨店グループに成長させた。売上高で百貨店トップを達成し、「中興の祖」と呼ばれたのに、最後には逮捕される状況にいたります。
水島広雄氏
                    2014年8月水島氏の死を報じる読売新聞記事より
有楽町店心斎橋本店

 ここに掲げた人々も2014年8月の水島氏の死によって、堤義明氏を除いて、お亡くなりになりました。水島氏の追悼文の中に水島商法の記事がありましたので、それをご紹介しておきます。日経ビジネスの2014年8月22日の「追悼 “デパート王”」からの引用です。一部、はしょってあります。


 水島氏が興銀からそごうに転職したのは、妻・静がオーナー一族である板谷家につながる家系だったことがきっかけだった。58年、東京・有楽町店の失敗などで赤字に転落し、社長だった板谷宮吉が引責辞任する。その時、一族代表として副社長に就任したのが水島だった。
 62年に水島はそごう社長の座を手に入れ、5年後に千葉そごうを開店させた。この時、水島は別会社を作って、新店を立ち上げている。このやり方について、「もし失敗しても、そごう本体に影響が及ばないように考えた」と語っている。
 だが、結果的に千葉そごうが成功を収めると、別会社方式による出店は戦略性を帯びてくる。まず、出店候補地や周辺の土地を、秘密裏に様々な会社名義で購入する。そして、そごう本体や千葉そごうなどの基幹会社が出資して、経営母体となる会社を設立する。いざ、出店となると、グループ各社が債務保証して、新会社に低利で巨額な資金を調達できるように支援する。
 出店構想が明らかになると、もともと買い取っていた土地の価格が高騰する。その含み益を新会社に吸収させ、初期投資による累損を一掃させるのだ。開店後、あっという間に黒字の新会社が生まれることになる。そうすると、次はその会社が新規出店の資金調達窓口になっていく。
 こうして千葉そごうなどの基幹会社を中心に、複雑な資本関係を築きながらそごうグループは増殖していった。水島は千葉そごうの株式を約50%保有していることで、実質的にグループのオーナーという立場を保った。
 ここで重要なポイントは、唯一の上場会社であるそごう本体が、グループ会社のほぼすべてを連結対象外にしていることだ。グループ各社が少しずつ出資することで、連結決算の網の目をかいくぐっている。そごう本体の財務リスクを軽減し、さらにグループの全体像を見えにくくしている。日本の金融・会計制度の盲点をつく勝利の方程式を完成させていた。