中央卸売市場以前の世界

取引

 中央卸売市場が形成される以前の問屋制度と取引を簡単に述べておきます。 詳しくは「魚河岸野郎 魚河岸四百年」に書かれていますので、そちらを参考にして下さい。当時、問屋と仲買、問屋兼仲買の三つのタイプがありました。問屋は、持ち浦と呼ばれる魚場を持って問屋の権利を手に入れる場合がほとんどで、持ち浦から仕入れて仲買に売り、仲買は問屋から仕入れて買出し人である小売商、主に棒手(ボテフリ)商などに販売する。 兼業型は持ち浦から仕入、小売商にも売るというもので、大多数の魚問屋は兼業型でした。 当時の問屋と仲買の関係は、販売代行者という感じで問屋の請下という名前が付いている時代もあります。問屋に長く勤めたものが暖簾分けをしてもらって仲買になって、主従関係が継続する場合もあったりする中で、板舟権が認められ、鑑札が発行される頃になると問屋からの独立性が強まっていきます。

 日本橋魚河岸を例にとると、当時、魚問屋は最初は小田原町、次に本船町と次々と広がっていき、問屋は競争を抑えることを主目的として、町ごとに組合を結成していきます。その成り立ちから、持ち浦の地域も、組合の広がりと共に広がっていったようです。

 取引方法は、問屋は浦方と仕入証文を取り交わして、先に仕入金を渡し、獲れた魚を全量、在方の問屋または押送業者に渡す形で、仕入金を相殺していくものです。問屋は仲買に値段を決めずに魚を渡し、仲買は自分の裁量で魚を売り、河岸びけに仲買が問屋に集まって価格を決めるという方法です。価格に対する産地への割り前は決まっていましたが、問屋の良いように価格を決めましたから、割り前の意味はありません。荷主たる浦方は河岸の価格を確かめるには、自分で出向くしかありません。売りの方では、売り惜しみやら、問屋が談合して価格を吊り上げるという状況だったのです。ですから昔の魚河岸にはセリがありません。これが大阪の雑喉場や熱田では違っており、中でも熱田ではセリがほとんどであるけれど、きちんとした形の仲買がなかったというように、市場により違っています。

 浦方では仕入証文を取り交わした以外の他への販売を厳しく制約していますが、漁法が発達し漁獲量が拡大すると、他への転売も時代が下るにつれて多くなり、魚河岸への反発から、浦方が中心になって別な場所に魚市場を開くというのも出現します。また、産地商人が集荷し魚問屋に売るという形態も広く見られるようになります。

下図は大林組が想定復元した日本橋魚河岸です。季刊大林No.18


物流
 森火山氏の「日本橋魚河岸」画集から、江戸の頃の物流を見てみます。

押送舟:東京湾内を高速で横断した魚の輸送船です。



平田舟といわれた日本橋河岸の浮き桟橋です。潮の満ち干により上下したのでしょう。右の菰をかぶっているのは上の押送舟ですが、かなり小さく書かれています。
 
押送舟から、荷揚げする風景です。これは平田舟を使っていない。細い板の上を重い荷物を運ぶ苦労が語り継がれています。この作業をしていたのが小揚げと呼ばれる人達です。

 下は大林組の想定復元図にあるもので、白いのが押送舟で川の方向に張り出している桟橋が平田です。岸壁の丸いものは井戸で道路側の薄く格子状になったものが板舟、濃い格子状のものが店です。店を持っていても板舟権がないと張り出すことができないので商売にはならなかったそうです。

季刊大林No.18 日本橋魚河岸想定復元

 店から板舟、購入したお客のために茶屋まで輸送するのが軽子と呼ばれる人達です。       中村勝「魚河岸は生きている」より

 板舟は幅広の板に向こう側に水を入れた盤台をかませて斜めにして、よく見えるようにしてあります。これが船の形に似ているからというのですが、どこがそうなのか、よく分かりません。


仲買/棒手売り

 盤台や天秤棒を棒手ふり商人から預かり、朝、貸出をし、買ったものを一時預かりしたのが潮待ち茶屋・魚茶屋と呼ばれるものです。潮待ちというのは、上げ潮や引き潮を利用して舟で輸送するためで、それを待っている場所です。お茶なども供されてといいます。その数は明治の頃には数百軒に及びます。