中央卸売市場以前の世界


 大正12年(1923年)に中央卸売市場法が交付され、京都に中央卸売市場の第1号が昭和2年(1927年)に建設・開場される以前は、朝廷、近世以降は幕府、藩政府からの許可を受けて市場は形成されました。 許認可権が幕府や藩にあるとは言っても、市場や取引の内容を規制するものは何もありません。城中の食事用として優先的に上納する仕組みがあった程度です。
 長い歴史の中で当事者同士の間で、取引が積み上げられていき、社会の発展、商業の発展が促されていったのでしょう。 近世では卸売業という言葉はなく、すべて問屋であり、米や塩、醤油などと同じ問屋として位置づけられていました。

 問屋は江戸、京、大阪などにあって、産地から仕入、零細な小売商、多くが行商ですが、に売り、消費者は行商から買うもので、店売りが主体になってくるのは、明治以降、近代に入ってからであったでしょう。 消費者が市場に行って買い物をするということは、まずなかったでしょう。行商はボテ振りと呼ばれ、青果や魚は天秤棒の両側に籠や盤台を乗せて、売り声を出して町内を回って売り歩くもので、 生鮮品以外は背中に背負って売り歩きます。荷物を背負って人間の歩ける範囲での販売ですから商圏はひどく狭いものでした。今日では遠距離とは言えないけれど、少し離れた場所には川を使って船で輸送しました。河岸からは同じように人手によって輸送されました。生鮮品の青果や魚類を購入できる層は非常に限られていた。
 市場との間で買出し人は、日に何回か往復したようですが、それにしても盤台に入れられる量で一日の生活費が稼げたというのも、いかにお金がかからない時代とはいえ、大変なものです。

 下図は江戸期の熱田にあった魚市場の光景です。かなり原始的な姿を見ることができます。 というのも常設の店舗がなく、船着場もありません。砂浜に船が着き、直接、荷揚げされ、そのまま取引されている様子があります。納屋でかろうじて雨を防いでいますが、さほどの効果は期待し難いものです。 この市場の資料はほとんどないので分かりませんが、東海道の街道筋に初期の市場はあり、画像にあるように武士なども歩いている光景があります。それにしても日がようやく上がろうという時間に、いかに沢山の人が往来しているか、ここらは現代生活になれた我々には分からない感覚なのでしょう。

熱田(名古屋)魚市場(堀川の歴史より) 秋山が着色


 こちらは江戸も後期頃の日本橋魚河岸の画像です。港側に納屋があり、揚げられた魚が大きな板に並べられて売られる状況がみられます。道路側に張り出されている様子がよく分かります。 通路には名古屋で見られるような雑多な人達はいず、いづれも魚の買出し人のようです。この板は、板舟と呼ばれたもので、これが権利になっていた。板はこの絵で見ると横幅がかなりあるように見えますが、幅4尺5寸(1.4m)、長さ6尺(1間、約2m)で、材質は書かれていませんが、檜材ではないかと思います。安い杉の可能性もありますが、耐久性なども重要であったでしょう。日本橋魚河岸が震災で崩壊する直前、1300人の魚問屋があり、この板舟の総延べ距離が900間、約1.8Kmになっていたと言いますから、凄いものです。この板船は早朝(明け六つ=午前6時)の時間帯のみで、それを過ぎると片付け、この辺りには麻の問屋、薬の問屋などが立ち並んでいたことから、昼は麻の取引などが行われていたのです。
江戸名所図会 日本橋魚市

 江戸から明治の半ば頃までは、汽船(動力源を持つ船)の使用はないですから、人力や風力、潮力頼りです。 当時、鮮度の高い水産物は押送船と呼ばれる底の平らな高速船が使用されており、満潮時に船着場であった平田船から陸揚げし、売買が行われたようです。 江戸の頃は現在の道路の多くが水路でしたから、車で輸送する感覚で水路を使って荷を動かしていたのです。これは青果でも、まったく同じであったでしょうが、青果は陸路と川が多用されたと思いますから、満潮と干潮は逆の利用になっていたのかもしれません。ここらは当時は当たり前過ぎて話題になっておりません。ただ、そうなると潮の満ち干は毎日一定ではありませんから、取引時間が一定ではなくなりますので、早朝に常に取引が行われるとは限らなくなりますので、河岸での取引が始まった当初はともかく、盛んになった頃に、潮待ちというのが、どういう状況であったのかは分かりません。

 下は明治も初めの頃でしょうか。日本橋は変わりませんが、向こうには鉄筋製の橋がかかっていますし、ガス燈も見えます。魚市場も土蔵造りの立派な家になっています。明治も半ばを過ぎると鉄道や汽船を使っての入出荷が盛んに行われ、集荷範囲も全国的なものになっていきます。


東京名所図会 日本橋区より日本橋魚市場の図  秋山が着色


 こちらは青果の神田市場。見開きページからスキャンしたので、本物の画像がありました入れ替えます。

 こちらは明治に入ってからの大阪の雑喉場魚市場の画像です。日本橋と同じ頃でしょうか。土蔵造りの店構えに道路側に台を出している様子が分かります。天秤棒の両方に丸い盤台をかついで運ぶ姿は、同じですが荷車のようなものが見えます。 荷車、台車、自転車が登場するのも明治半ば過ぎの特徴です。

大阪市立図書館より