食品卸売業経営論

はじめに

 問屋=卸売業というのは、なかなか分かり難い商売で、これは欧米でも同じらしく、きちんとした理論の論文をみたことがありません。問屋というのは商業の原点で、個人相手の商業、小売業が本格的に始まるのは、それこそ近世、江戸時代ですから、それまでは商業といえば、集団相手の商売、今日で言うところの卸売業だったわけです。

 分かり難いことの最大のポイントは、商品を右から左に流してるだけのように見えることでしょう。よく教科書には、問屋の機能は、商品の集散機能、品揃え機能、金融機能、情報機能と書いてあります。
 産地から需要者までの中間にあって、産地が多様な需要者に供給したり、需要者が様々な産地から商品を直接取り寄せるのは大変なので、それを節約する機能を問屋は持っている、個々の需要者に必要な商品の品揃えし、便宜性を高める機能がある。お金の面でも、産地や需要者が生産や販売に必要な資金を直接融通したり、問屋の信用で金融機関から融資の手助けをする。需要者が今、こんなものを欲しがっている、逆に産地には、こういうものが人気があり、高く売れますよとアドバイスする、そういう役割を果たしているのだと。
 分かったような分からない説明です。これで商売としてどうなのかは、全然、分かりません。製造業は商品を作る機能である、小売業は消費者に商品を売る機能であると言っているのと同じくらいの説明でしかありません。静態的な機能論です。

 マーケティングは、3P、Product(製品)、Price(価格)、Promotion(販売促進)を基礎としていると、ほとんどの教科書で述べられています。この3Pを巡って議論が展開されるのですが、時折、大きな前提が欠けて議論されることが少なくありません。その前提とは製造業の大量生産、大量販売、大量消費を前提にして作られたロジックであるということです。アメリカの巨大製造業の論理とは、独占を指向しています。対抗する商品を打ち倒す論理を秘めていることです。まぁ、この問題は流通業の世界ではないですから、これ以上、立ち入らないで措きましょう。
 問題は、この3Pを小売業や卸売業においても、マーケティングから掘り起こす時、同じように適用する本が、多くあることです。しかし、小売業や卸売業が一つの商品とは言わなくても、商品群にしても、その価格や特性で経営に影響を与えることはありえないことです。例えば生鮮品という大きなくくりでも同じです。あの店は生鮮品が安い、品質が良いと評価されても、それが経営の決定的な要素ではないのです。コンビニのように生鮮品の扱いが少ない、品揃えも悪い、品質も良くなくても、便宜性という面で充分であれば、消費者は購入する訳で、商品の内容や価格が決定要素ではないからです。

 小売業におけるマーケティングの要素は、私が考えるところでは、立地と、マーケットに展開できる店舗数を含む「店舗」、商品やサービス内容を規定し、売り場面積を決定付ける「業態」、そして特売やポイント制などの「販売促進」で構成されると思われます。小売業にとっての製品=商品は、価格や品質と不可分の関係にあり、その商品が業態の中で占めるポジション、位置に関わります。ですから目玉商品として顧客を惹きつけ、他の商品の購買を促すものならば、1円でも構わない、現実にそういう価格設定をする事業者も多くいる現実です。
 我が国にはスーパーやコンビニの本は数多くありますが、小売業全体をマーケティングの立場から分析する本は寡聞ながら、ないと断言してよいと思われます。特に業態論はほとんど存在していません。企業家が試行錯誤によって構築してきたものの理論的な枠組みさえ提供できない状況にあります。例えばユニクロやブックオフについて、まともに論じたものが存在しないようにです。
 では外食におけるマーケティング要素とは何かを考えると、小売業と同じく「店舗」、「業態」がありますが、肝心の販売促進に当たるものがない。我が国のスーパーやコンビニが直面する問題を外食のチェーンは孕んでおり、それが今日の苦境を招いています。欧米のスーパーのように、我が国のスーパーも、コンビニも、外食も、顧客を掴めない、無名の通りすがりの人を相手にするしかないジレンマを抱え込んでいるのです。無名の通りすがりの人が顧客では、訴求できるのは価格しかない。外食であれば手を替え品を替えた新規メニューという名前のマンネリしかない。それは経営を傷める結果しか招かないのです。本部が抽象的に構想する顧客では何も分からないのです。外食の販売促進とは「ホスピタリティ」、顧客と店を繋ぐサービスですが、いまだ、それを巧くビジネスに適用できた企業がないのは、欧米と我が国の食の文化の違いが強く関わっています。

 本論の中心である卸売業におけるマーケティング要素とは何かがあります。本論を書き終わる頃には変化するかもしれませんが(定説がまったくありません)、卸売業を形成させる領域(レンジ)、位置(ポジション)、そして販売促進に当るものが卸の営業によって作り上げられる流通経路の設計力(チャネル・デザイン)にあると考えています。

 我が国には明治以来、欧米を見習うことを最重要行動としてきました。進歩が善であることがビルトインされています。流通の世界でも欧米が理想であると、今でもほとんどの人が信じて疑いません。欧米では表面的には我が国のような問屋はないことから、問屋は無駄であるという思想が強く昭和30年代から根を張っています。実際には問屋の機能は一部はメーカーに、一部は小売業に、そして形を変え機能を分ける形で厳然として存在しています。逆に卸売業から小売のチェーンを編成し大きな力を有している巨大企業も存在しています。
 これが進歩した姿であるのかというと疑問を感じます。問屋機能のメーカーや小売業による吸収は、社会コストを本当に節約したことになるのか、消費者を豊かにすることに貢献したのかというと、そうではない。そういう動機で進んだ訳ではないからです。アメリカの事業経営の論理は流通業においても独占による利益を指向しています。独占は規模の拡大と他を圧する合理化によって達成されます。合理化は関係するメーカー・産地、流通業者のみならず消費者にも及び、セルフサービスというサービス・スタイルが生れる大きな要因になっています。合理化はアメリカらしい標準化、単純化、分業化という「工業の論理」によって貫徹します。商業の融通無碍な、非論理的なものを排除することで完成するのです。
 アメリカ文明の象徴というべきスーパーマーケットに、ヨーロッパは蹂躙されつつも、なお、問屋も市場も、かろうじて生き残っています。我が国の問屋も、踏ん張っている。やがてヨーロッパのようになる、アメリカのようになるというのは正しい選択と言えるかどうか。この点は商業という極めて人間的、人間臭い仕事を我々の社会、文明がどう位置づけるかに係っていると言っても良いと思います。

 我々は商品を買うという行為の中で行われた日常的な会話を喪いました。既に買い物は苦痛になりつつあります。そしてコンピュータにキーを打ち込むだけで商品が届く時代に生きています。人間的なものが日常から奪い取られています。我々の部屋は物に溢れかえっています。生きていくのにコストがかかり過ぎるようになりました。他者との壁は高くなるばかりです。幸福になっているのでしょうか。我々の生活の満足度は高まっているのでしょうか。商業というビジネスの世界に起きていることは、文明論まで我々に突きつけているのです。

                                        文責:潟Iフィス・ジェイ・ワン 秋山登志夫         2010.5.10