s50年代 豊饒/芳醇=方向の喪失


 70年代の様々な芸術運動が爛熟期に到達し、新しい何かを見つけるのが容易ではなくなっていました。多くの若者達は学生運動が終焉した段階から「シラケ世代」といわれる無気力に包まれ、そして次に続く世代は「新人類」と呼ばれるようになります。どこの会社に就職しても同じ人生だという、この時代特有の感覚に包まれます。
 やがて名前が付けられるのかもしれないと思いますが、高度成長期の次のステップへ、低迷する欧米諸国を尻目に爆発的な輸出によって新たな時代、世界一の豊かさに向っていく時代です。バブル時代はアメリカを追い抜く豊かさに満ちる訳ですから、この上昇はヨーロッパ先進国でもわずかしか経験しない豊かさでしょう。

 この豊かさの中で若者達の多くが、方向性を喪い、自分探しやらフリーターが、何か自由な生き方のように吹聴されます。特に高学歴の若者に多く見られる現象で、かつて中卒や高卒の子達が自分のいる場所を求めて職を転々とした時代とは、まったく逆になります。それは長いデフレに苦しむ今日から見れば、とんでもない間違いだったのですが、既に若者達は貧乏が分からなくなりつつありました。新しい豊かさが社会を覆っていました。戦前戦後を通じた貧乏、そこから這い上がるという考えが崩れ落ちていったのです。そして80年代に入ると新たな価値感を背負った「オタク」が出現してきます。

 60年代末から70年半ばまで若者が集まるのは新宿でしたが、1973年にPARCOが渋谷にオープンすると、流れは渋谷に向い始めます。西武の文化戦略が東急の金城湯池であった渋谷を奪い取るのです。その象徴が渋谷区役所通りを公園通りに改めることから始まります。商品やサービスは機能や必要ではなく、豊かさの中で新しいコードによって突き動かされていきます。それが渋谷にぴったりと合致し、75年にはスペイン坂がお目見えします。それまでの小さな裏通りがファッション・ストリートに変わります。


渋谷PARCO(写真は2010年)                                   スペイン坂(写真は高橋郁男「東京時代」)
20世紀渋谷・原宿若者文化年表がありましたのリンクを貼っておきます。この年表から代表的なものだけをピックアップしておきます。
1975年 渋谷公園通りのタウン情報誌として「ビックリハウス」が創刊、井の頭通りから渋谷パルコまでをスペイン坂と名づけられる
1977年 原宿歩行者天国などで“ローラー族”が出現(〜80年代中期)
1978年 センター街に喫茶「ナイロン100%」オープン。原宿に「ブティック竹の子」オープン。竹の子族発祥へ
1982年 クラブ「ピテカントロプス・エレクトス」がオープン。ライブハウス、渋谷「ラ・ママ」がオープン。「ユーロスペース」オープン。
1983年 表参道にカフェバーの走り「キーウエストクラブ」をオープン
1984年 ファッションビル「109-2」オープン
1988年 渋カジ登場
1989年 Bunkamura」が開設
1992年 渋谷周辺の不良集団に対して“チーマー”の呼称が使用され始める



永沢まこと「東京人間図鑑」より。

次々と新しい名前を背負った通りが出現し、西武に対抗する形で東急が109をオープンさせるのです。渋谷の活況はやがて青山に、代官山、恵比寿に飛び火し、新たなファッションと文化が生れ始めます。


商品への欲望
 豊かさを背景にして手元に置く商品へのこだわりが激しくなっていきました。ブランドへの指向が強くなっていく、それも一部の金持ちやら特権階級ではなく普通の人達へと広がり、ブランド化の波は年寄りから子供たちにまで広がっていくことになりました。
 その一方というか、ブランドだけでは飽き足らなくて、より個性的なものを求める傾向も強まっていきました。これが端的に現れたのが雑誌類です。雑誌MONOの創刊は82年です。もうあまり覚えていないのですが、類似の雑誌も多くありました。これらの商品を扱う店の特集ムックも大量に溢れ出ます。

 こういうモノそのものではなくとも、各種のスポーツ専門誌など多様な雑誌類が出版され、それらにも当の分野の専門的なブランドと商品が掲載され欲望を刺激していくことになりました。