東南アジアなどへの工場移転/海外進出

 1973年、変動相場制の採用以降、円高が進み、1980年でかつての360円時代からほぼ半減するという事態になり、海外への工場移転が爆発的に増大していきます。その後、円相場はレーガノミックスによるドル高誘導で270円まで持ち直しますが、1985年プラザ合意により、大幅な円高へと進み、やがてバブル経済を生むことになります。

  円高を背景に台湾や香港では、籐家具関係の輸出が増大し始め、台湾ではオートバイ、シャンプーなど日本からの工場移転が起き、やがて東アジアの奇跡と呼ばれるようになる経済発展が起きてきます。また、朴政権下の韓国では漢江の奇跡と呼ばれる経済発展に、アジアマーケットの拡大という形で大きな弾みを生み出します。
 いわゆるNIESと呼ばれた諸国から始まって、非常に多くの企業が、タイ、マレーシア、インドネシアなどに進出していきました。中でも多かったのが87年に進出が始まったタイでした。タイではバンコク近隣の工業団地には現在でも大量の日本企業を数えることができます。下の一覧表はほんのわずかな一例にしか過ぎません。

日本アセアンセンターのHPより

 これはマレーシア(ジョホール州)やインドネシア(バタン島)でも同じように工業団地を建設し、インフラを整備し、日本企業進出を促しました。日本企業が産みだした雇用は、これらの国の経済発展に非常に大きな影響を与え、社会を変えていくものになりました。繊維、雑貨、家電、自動車など、ありとあらゆる企業が並びます。これらは日本の工場の下請け的な位置づけから、円高を背景にブランド名こそ日本メーカーでしたが、直接、アメリカやヨーロッパに輸出するようになって行きます。
 食関連では、ブロイラーの加工、安い居酒屋、スーパーに並ぶ焼き鳥などは、串刺しにした形で冷凍で輸送されてきました。
 また、エビの養殖は、我が国が開発したことですが、台湾へ、病気の発生から東南アジアへ、そこも頭打ちになるとインド、中国へと移動していきました。エビの輸入国はアメリカと日本で占められていましたから、エビの確保で、やがてしのぎを削る関係ができていきましたし、輸出国であるタイなどからみれば日本市場ばかりではなく、アメリカ、やがてヨーロッパを視野に入れた巨大な発展の基礎を築いていくことになりました。 この発展は、やがて海外投資家の目をこれらの国に向けさせ、日本以外の欧米各国の投資を引き寄せていくことになります。


エビの輸入量と産地

インドネシアのエビの漁場

 エビ、主としてブラックタイガーは、収穫後、頭を取るなどの加工をし、パックして冷凍で輸送し、スーパーなどに大量陳列で販売されるようになります。加工場はタイに多くがあり、インドネシアのエビもタイに運ばれ加工しました。近代的な工場に大量の若い女性を雇用して作業に当る姿が見られました。やがて2000年前後には中国が一大加工基地になっていきました。
タイ、エビ加工場

 労働集約的な仕事の海外移転に伴い、多くの日本人が管理・監督官として、あるいは建設指導や工場の立ち上げに海外に渡りました。
そういう舞台に小説、一色伸幸「僕らはみんな生きている」が出版され、漫画にも映画にもなりました。


漫画:山本直樹

海外買春
 西原さんの漫画は上海の2000年代に入ってからのものですが、当時のバンコクなどでも同じような光景だったのでしょう。
西原理恵子

 豊饒という言葉には似つかわしくはないのでしょうが、豊かさは日本の大人の男達に海外で女を買うという快楽を見出すことになります。 企業による海外進出が華やかに繰り広げられる中で、起きてくることです。当然のことながら、貧しい国の女が対象になります。 最初は韓国、キーセン買いといわれ、韓国が豊かになった時には少なくなっていきますが、それでも現在も活きているものです。 キーセン買いは日韓国交回復前後からですから、1960年代からです。キーセン買いは「思い出の暗がり」に掲載しておきました。
 次に浮上してくるのは東南アジア、フィリピン、そしてタイ。中でもタイはバンコクに大量の日本企業が進出したこともあって、買春の中心地になって行きます。 昭和50年代は全盛期であったでしょう。東南アジアへの買春旅行が盛んになって行きます。噂は沢山聞きましたし、友人から誘われたこともありますが、残念ながら経験はありません。
 こちらはタイ。
別冊宝島「売春するニッポン」から


 性風俗という点で最初に現れた事件が、73年には玉本敏雄という特にどうということもない一介の小さな商社の社長がタイで20人の少女を集めてハーレムを築き逮捕される事件が起きます。下は玉本の愛人たちで、彼女たちの素朴さが印象的です。彼女たちも玉本のことを親切なオジサンくらいの感じであったようです。タイでというよりも国内での非難は凄まじいものでした。
玉本の愛人たち アサヒグラフ1973.2.2
 この事件によってタイでの買春が世間に知られるようになります。この頃の日本人と言えば欧米でもポルノ・ショップやストリップ・ショーの最大の顧客として知れ渡っていました。
 以降、
タイ、バンコックの買春は日本人「性」租界とまでいわれたパッポン、タニア街を中心に広がっていきました。元々、この地域はベトナム戦争の折のアメリカ軍人相手の売春街として発展してきたという話で、ベトナム戦争の終了後、アメリカ兵の後を継いだのが日本人とドイツ人であったというのも、歴史の皮肉であったでしょうか。バンコクに駐在する日本人達だけではなく、空港から直接団体バスで大量に乗り付けたというのですから凄まじいものです。米兵の頃はパポンが主体でしたが、この新しい顧客のためにタニア街が日本人向けに開発され、広がっていったと言います。79年には約30万人の売春婦がバンコクにいたというのですから、世界中から男性客を惹き付けており、そのナンバーワンが日本人だったのでしょう。

日本語看板が目立つタニヤ街
アミーゴのホステスさん達
別冊宝島「バンコク快楽読本」より

 当時、タイに出張する男たち向けに、こんな本の類が多数出版され、やがて問題になり販売禁止.。市場から完全に消えるということがありました。これは古書市で売られていた、ある意味で貴重な本です。


バンコクのカフェ
マッサージパーラー
 バンコクのタニア通りなどのゴーゴーバーで半裸の若い女性が踊っているのを選ぶようです。 かつては三流週刊誌などでは、この情景が写真で掲載されていたものですが、非難を浴び、そういう写真は消えました。 あったら掲載します。

バンコクのゴーゴーバー、レインボウ               別冊宝島「売春するニッポン」から

バンコクのカラオケ・クラブ
 こちらは最近(2012年)のものですが、パタヤのGOGOバーのネットから拾った写真と映像です。


バンコク、ゴーゴーバーのナナプラザの電飾。ここで2008年、日本人男性がタイ人女性と無理心中をしています。

 この時代のもう一つのポイントは
フィリピン、マニラです。南国の持つ陽気さが惹き付けていく訳ですが、ここも米兵の後釜が日本人という落ちです。写真は山谷哲夫「じゃぱゆきさん」から。
マニラ最大のゴーゴーバー「オージー」




                                            いとしのフィリピーナと題された日名子暁「マニラ通」から
 マニラは治安が悪く、5万円も出せば人を殺してくれるという噂まで飛び交い、保険金殺人の舞台になったり、銃や麻薬の密売ルートとしても名前が挙がることにもなります。

外人を買う
 出かけてくる日本人相手ではなく、逆にフィリピンからダンサーという名目で相当な数のフィリピナーを呼び寄せるという形が並行して行われるようになります。 暴力団がらみなど、胡散臭い連中の斡旋で来日します。各地の飲み屋街にフィリピン・パブが出現します。 ダンサーという名目でしたが、ホステスまがい、果ては売春が強要されるようになります。
 それでも良い稼ぎになるというので、日本への出稼ぎは、オーディションを受けて合格してというコースが取られますが、当然のことながら観光ビザを使った不正入国でありましたから、入管とのつばぜり合いとなります。
その後、韓国人女性のホステスばかりがいるキーセンバー、ソ連崩壊以降ではロシア女性などがホステスが出現するのは90年代以降です。
フィリピン・パブ(毎日新聞)

キャバレー・エリザベスのフィリピンダンサー(異人都市TOKYO)
 売春はアジア系ばかりではありません。白人へのコンプレックスも大いに関係するのでしょう。スタジオ・ボイスの86年4月号東京シングルライフ特集に「ダニーズイン」という店が紹介されています。そこでは白人の女が買えるような書き方があり、「白い馬に乗る」という言い方があります。白人娼婦の値段が4万円とあります。この店は乃木坂の近くのようですが、思い出してみますと、赤坂あたりに外人の立ちんぼがいるという話が飛び交っていたように思います。時代はバブルの方向に突き進んでいます。