Video,Personal Computer,Robot(ビデオ パソコン ロボット

 この時代に文化的に、やがて産業的に大きな影響を及ぼすのが家庭用ビデオの普及とパソコンの登場です。また、この時代に産業用ロボットが作られ、メカトロニクスという造語が作られ、我が国産業の圧倒的な輸出力とそれを裏打ちする技術力を世界に見せ付けるのです。

(Video)
 カラーテレビの普及が一段落した所で、家電メーカーの次のターゲットは家庭用ビデオでした。特に再生用デッキに最大のポイントがあり、先行したのはまたしてもSony(1975年)でした。後をビクター、パナソニック(松下電器)が追い駆けますが、Sony、東芝がβ方式、松下、ビクターがVHS方式と、媒体となるテープまで違うことで、世界中を巻き込むβvsVHS戦争が勃発します。我が国家電メーカーが二つに分かれて激しい争いは、ビデオ・デッキの低価格化、小型化、軽量化、操作性の向上に進んでいきます。下の写真は1号機ですから、非常に大きく、テープを上から入れる方式です。初期はそれこそ4,50万円していたように思いますが・・。
 喰うか喰われるかの闘いは最終的にはVHSが勝利を収め、Sonyは全面的な敗北を喫することになります。販売が技術に勝利したとも言われました。デッキの戦争はビデオ・カメラにも広がり、デッキの技術革新も大きかったですが、カメラの小型化、高性能化、低価格化が猛烈なスピードで行われ、誰でもがビデオで撮影する、子供の運動会のお父さんの役割が、我が子を撮影することに集中することになります。

Sony β-TVictor HR3300
                                上図2枚共に「懐かしのAV機器」より、いずれも1号機(1975,76年)

 そのようなメーカー同士の闘いはともかく、家庭用ビデオの登場は、家庭で、個人で映画を見る、映像を楽しむという趣味が出現したことです。ビデオのソフト産業が形成され、特に妄想でふれるAV(Adult Video)が、映画を押しのけて猛烈な勢いで広がっていきます。また、高額のビデオ・テープを購入せずに済むレンタルビデオ・ショップが林立していくことになります。ダビング屋が自分用にテープに録画するサービスも出てきて、ビデオ・ソフト屋との著作権を巡っての戦いも起きてきます。

(パソコン)
 パソコンの黎明期の話は、いろいろあるでしょうが、私自身の話に限ります。この下にあるTK-80というキットがNECから販売されます。当時、私はコンピュータ部門からは出ていましたが、コンピュータ屋の一人として個人でコンピュータのキットを組み立てるという話は、実に何と言うか刺激的でした。当時のコンピュータといえば億円単位で、大企業しか保有できないものでしたから、玩具とはいえ、こりゃあ凄いと。この画像にあるとおり7万円弱の値段で、私も買いましたよ。でもこいつは自分で半田付けする代物で、電卓のプログラムを自分でマシン語で打っていくという凄まじいものでしたから、買ったは良いけれど、まぁ、本当に玩具にもならない代物でした。しかし、これが実に凄い量、売れたのです。これが契機になってNECはパソコンが商売になることを知ったのだと思います。


 それから数年後、小さな100人程度のグループの事務作業の合理化を図る話から、当時、話題に上り始めたパソコンの導入を私が責任を持って行う話がありました。その時に対象となったのは、コモドール社のPET2001であり、ラジオシャック社のTRS-80でした。何故、国産でなかったかというと、その段階ではアメリカのものしかなく、NECやシャープは発売されてなかったからです。見ての通りカセット・テープでプログラムを入れたり、データ保存をするやり方です。カタカナは使えましたが、白黒画面で9インチのモニターだったと思います。いわゆる8ビットパソコンです。
 こいつが、まぁ、近くで電気工事があるとシステムダウンするし、何かといえばフリーズする代物で、フリーズすればデータは吹っ飛ぶ、電源の落とし方を間違えると次に立ち上げるのに、導入時と同じインストール作業をやらなきゃならないという、まぁ、なかなかのもので、普通にコンピュータをやってきた人間からすると、玩具であって橋にも棒にもならん代物と軽蔑する対象でした。ですから当時、コンピュータをやっていた連中は見向きもしませんで、そうでない素人やら、学生みたいなのが跳び付いた。この後の展開なんか予想もできない状況でした。コンピュータ屋として取り組んだという意味では、私は異色の存在でした。



PET2001(Comodole)            TRS-80(RadioShack)            

 半年もしないうちに日本のメーカーが参入します。先に売れたのはシャープのMZ-80でしたが、マイクロソフトのOSを使用せずに独自路線で行ったことが、次に出たNECのPC8001に大きく離される契機となります。マイクロソフトのOS=Basic言語を使うということが、既存のメーカーをなぎ倒す力となって働きます。慌てて他のメーカーもマイクロソフトを使用するようになりますが、この初手のつまづきが富士通辺りには大きく響いたと思います。先に述べたように、従来のコンピュータ屋には、玩具であって、それ以上の広がりが出てくるとは誰も思っていなかったことが戦術的な誤りを生んだと思います。

PC8001(NEC)               MZ-80K(Sharp)

 何故、ここまでにApple社が登場しないのか不思議に思われるかもしれません。当時、Appleはアメリカ国内販売が手一杯で日本向けに仕様を作る、つまり日本語版ができていなかったのです。英語のマニュアルで取組みには、当時のパソコンの性能、品質からすると研究ならともかく、実践に近いところでは不可能です。このAppleUは1977年発売ということですが、こういうディスク・タイプが日本で売り出されるのはNEC8801ですから、1981年ですので、4年の差があることになりますが、そこまでアメリカと日本で離されていたかどうか、ちょっと??です。
 NECは翌年、名機と言われたPC9801を売り出し、ほぼ独占的なシェアを握ることになります。世は16ビットパソコン時代に移行し性能は加速度的に上昇していきます。

AppleUPC9801(NEC)
 一方、アメリカでは満を持していたように世界のIBMがパソコンを売り出し、あっという間に、市場を制覇します。なにしろパソコンは動作不良が多かったから、IBMに対する信頼の高さがこういう結果を生んだのでしょう。Apple以外はほぼ淘汰されます。IBMのマーケット戦略も巧みだったのですが、しかし、やがてIBMPC互換機の登場を許すことで、IBMの牙城は意外に早く沈没していくことになります。しかし、IBMのパソコン進出はネットワーク端末として、ワークステーションとしてのパソコン利用を促し、それまでの大型汎用機を核としたネットワークの志向から、LAN(Local Area Network)に導くことになり、コンピュータを巡る事業環境は一変することになります。NECはC&C(Computer&Communication)を唱え始めます。
 一方、Appleは根強いファンに支えられ、先進的なGUI(Graphical User Interface)のWYSWYG(ウィズウィグ)=What You See Is What You Get(あなたが見るものはあなたが得るもの)をパソコンで実現することを目指したマッキントッシュを販売して、その先進性を誇り、数多くの先進的なソフトウエア、やがてWindowsに移植されるExsel、データベース・ソフト、グラフィカル・ソフトによって、ある程度のシェアを維持します。しかし、あくなきマイクロソフト、ビル・ゲイツの野望はWindowsを開発しApple社を追い詰めていくことになります。


IBM PC5150Macintosh

 アメリカはソフトウエア開発で圧倒します。今日でも残るExsel、Word、データベース・ソフト、フォトショップなどの画像処理、ページメーカーなどのパビリッシング関係、自動設計のASDなど、群小のベンチャーによって斬新なアイディアは圧倒的でした。やがてマイクロソフトが資金力でこれらの企業や開発者を抱きこみ、巨大な定刻を築き上げると、アメリカのソフトウエア開発力は著しく落ちて生きますが、やがてインターネット時代を迎えて新たな挑戦が始まります。この当時、最も注目されたのがシリコン・バレーSilicon Valleyでした。電子工学を中心にバイオ・テクノロジー、宇宙開発などアメリカの先進技術の集合として、日本を始め世界中の憧れのアメリカン・ドリームを実現する場所として紹介されました。
シリコンバレー
写楽1982.10
 アメリカによるOSの独占に対して、日本製OSの製造・販売を試みたのが坂村健氏によるTRONプロジェクトでした。そのコンセプトは時代を先取りするものでしたし、その性能も優れたものでしたが、潰えます。アメリカの圧力があったのではないかという噂が駆け巡りますが、真相は謎のままでした。TRONは死んだといわれ長い年月雌伏しますが、携帯電話の登場などユキビタス社会の出現と共に復活を遂げますが、激しい技術革新の波の中で、今という時間の中でどのように評価されているのか分かりません。坂村さんが大儲けしたことはないことだけは確かですが。ユビキタス社会の到来を予言した書籍が「電脳都市」です。
坂村教授

(パソコン雑誌の創刊)
 ネットというのは凄いなと思うのは、アスキーの創刊号をまだ持っている人が画像をアップしてくれることです。まぁ、それはさておき西和彦さんによって創刊されたアスキー(1977年)は当時I/Oと並ぶパソコン専門誌でした。アスキーの方がマイクロソフトのビル・ゲイツと組んだことと、多様な内容とソフト販売などの積極的な経営により、急速に部数を増やし、メジャー雑誌になっていきます。我が国パソコン・ベンチャーの第一人者に西さんはなって行きます。NECのPC8001にマイクロソフトのBASICを採用させたのも西氏の働きによると言われており、マイクロソフトの発展に大きく寄与したのです。やがて西さんはマイクロソフト社の副社長まで登りつめるのですが、マイクロソフトがアスキーを通じてではなく、独自に日本進出を行い、アスキーとの契約を打ち切ったことで、アスキーの屋台骨は大きく揺らぎ、アスキーと西さんの運命は、暗転していくことになりますが、その辺りは他のブログなどを参考にしてください。まぁ、時間が経ってしまいましたから、どこまで話があるのか不明です。
 創刊から何年かのアスキーの勢いは凄いものであり、多くの読者も毎月、それこそ焦がれるように待っていたものです。私自身は創刊から何号かを見て、非常に面白いと思ったことと、一度、訪ねてみようかとも思ったのですが、メンバーのほとんどが20代でしたから、オッサンとして関われるのかなと、思ったくらいのことです。ついでに孫正義さんの関係の話をしますと、ソフトの卸売業が彼のスタートではないかと思います。当時、各種のソフトがいろいろな場所、パソコンの専門店以外の電器屋でも売られるようになっていて、その卸を行う会社としてソフトバンク(1981年)が作られました。その頃からも、相当に乱暴な会社で、金勘定を無視した路線拡張をやっておりまして、綱渡りのような、何時、倒産してもおかしくない経営をしていて、私の友人が孫さんから相談を受けたこと(多分、80年代の末)があって、私にも声がかかりそうになったことがありました。



 このパソコンの発展は、コンピュータ・ゲームを生み出します。コンピュータ・ゲームは一大レジャーに騰がっていく。そして画像処理の発達は、ロボットの発達とあいまってバーチャル・リアリティの実現に大きく踏み出す基となっていきます。それは小説家の想像力を刺激しサイバーパンク小説を生み出す力にもなっていきます。

CD Compact Disc)
 Wikiから『1982年、CDの生産が開始。10月1日、日本でソニー、日立(Lo-Dブランド)、日本コロムビア(DENONブランド、日立のOEMで発売)から世界初のCDプレーヤーが発売。ソニーの第一号機はCDP-101で168,000円、日立の第1号機はDAD-1000で189,000円、日本コロムビアも第1号機は日立製と同じ値段だった。同日、CBSソニー、EPICソニー、日本コロムビアから世界初のCDソフトが発売された。・・「レコードよりも音質がよく、ノイズがないニューメディア」として扱われた。レコードと同じ商品のCD版として売られ、価格もレコードよりも約2割ほど高かった。』
 大量生産によってプレヤーは急速に値段を下げていき、数年後には価格は1/4になりますが、ソフトの方はそう簡単ではありませんでした。CDは音楽媒体としてレコードを駆逐していくことになり、音楽マニアにとっては革命的なことでした。レコード・ジャケットのデザインを楽しむ雰囲気もなくなりましたし、レコードの針を凝ることもなくなりました。音楽鑑賞の文化が激しく揺さぶられていきます。レコード屋の雰囲気も大きく変容していきました。それでも日本では相当、長い間、レコードでの販売がありましたが、欧米の方がCDに全面的に入れ替わっていきました。こんなこともあって輸入版のCDの方が国内版のCDより随分と安いことがあり、輸入物が相当に入り込むようになりました。
 ただ、映像がCD化されていく、DVDが出現するには、まだ、相当に長い時間がかかります。


産業用ロボット
 当時は今のようなヒューマノイド(人)型ロボットは登場しておりませんから、単にロボットと言われていました。産業用ロボットの歴史をみると、最初は川崎重工による溶接用ロボットで乗用車のボディー溶接に使用されたものであったようです。70年代後半から富士通などが参入してくるのですが、一番注目されたのは富士通の子会社である富士通ファナックでした。コンピュータ制御技術によって独占的な地位を作り上げていきます。各社の猛烈な開発競争によって、Wikiにあるように、「日本は年間約10万台程度の産業用ロボットを生産しており、これは世界中で生産される産業用ロボットの7割に匹敵する。 また、全世界で約80万台の産業用ロボットが稼動している。そのうち約40%、35万台が日本で使われており、日本の経済とものづくりを大きく支えている。」ところまできました。

ハンドリング・ロボット                                                           ワイヤーボンダー(ICの結線)
溶接ロボット
小学館「写楽」1982#2

 ここまで日本がシェアを握るのは欧米がキリスト教の関係で人間に似せたロボットを作ること、使うことがタブー視されていることが背景にあるとされます。彼らからすれば、フランケンシュタインとなることを恐れたのです。
 注目すべきはロボットを使用するユーザーが、ロボットに女の子などの愛称をつけて、可愛がるという感性でした。これが今日のヒューマノイド・ロボットに引き継がれており、世界一のロボット大国となっています。