コンビニの成立、専門DSチェーン、郊外GMS、
ドラッグストア、HCの発展


(コンビニ)
 コンビニ=CVS コンビニエンス・ストア の形成には、例のごとく、アメリカでの成功を横目に見て、日本の大手スーパーは、次は「これだ」というので、挑戦が始まったのは70年代です。小型店への試みは試行錯誤が重ねられますが、すべて失敗に終わり、イトーヨーカドーが1974年に最初の店をオープンした時にも、冷ややかなもので、また、ぞろ、失敗かと思われていたものです。ヨーカドーは他社と違ってアメリカ・セブンイレブンから、全面的な導入、つまり日本におけるフランチャイズ権を得て展開を開始したということで、他社とは違っていましたが、アメリカ流が成功するとは思われておりませんでした。

 セブンイレブン・ジャパンの社長であった鈴木敏文氏が、アメリカらから学んだのは徹底的なシステム志向であったのでしょう。これがスーパーを我が国が導入した時との大きな違いです。スーパーの導入は、アメリカのスーパーを見よう見まね、その本質的な理念を無視して形だけコピーした、絵にかいたような劣化コピーでした。というのも当時の日本の小売業はアメリカのように大規模店は到底無理であり、品揃えのために問屋を使わなければ、とてもではないけれど商売できなかったからです。

 セブンイレブンは外食のマクドナルドであったと言ってよいでしょう。ここに小売業における初の業態開発となり、、巨大な成功に結びついていきます。その後にダイエー系のローソン、西友のファミリーマートが追い駆けますが、20世紀の間は追随を許さぬもので、圧倒的な支配を誇ります。その礎を築くのがこの時代です。大量出店がなければ維持できない小型店舗だったからです。コンビニの出店もフランチャイズ方式で、セブンイレブンは外食における詐欺的な募集を横で見ていたのでしょう。相当に厳密なオーナー選びとオーナー教育を行い、葬式でも閉店させないと言う強烈な縛りを行うと同時に、素人でも年2億円の売り上げる店主になれるという飴を与えたのです。粗利の45%を自動的に搾り取る仕組みはセブンイレブン残酷物語とまで噂されました。
 コンビニの発展は新たな弁当惣菜業を生み出していくことになります。それらはやがて中食という概念となり、だいぶ後のことになりますがバブル崩壊以降の不況の中で大きく成長していくことになります。親会社であるイトーヨーカドーがコンビニのセブンイレブンに呑み込まれてしまうなんてのは、まったくの予想外の出来事でした。
 上は改装前
鈴木敏文氏            セブンイレブン1号店豊洲
昭和58年当時のオリジナル・ヒット商品
 コンビニの出現は日本の夜を変えたとされます。16時間(7時〜23時)はすぐに24時間、終日営業になって行った訳ですが、「開いててよかった」というTVCMは、「明るいね、あったかいね」へに変化した時、深夜の真っ暗な闇に浮かぶコンビニが誘蛾灯のように、人々、特に若い独身で暮らす連中を呼び寄せるようになります。コンビニは彼らの冷蔵庫替わりになった。夜の治安が良くなったのか、どうかは分かりませんが、若い娘が深夜、パジャマ姿でコンビニで買い物をする姿が見られるようになるのです。コンビニが深夜のマーケットを開拓した以上の意味をコンビニはもたらし始めたのです。


画像は別冊宝島110 80年代の正体 浅羽道明「眠らない欲望の充填装置」に添付されたもの

永沢まこと「東京人間図鑑」より。
 この今では、どうとなく見える風景は、かつてなかったものです。


(専門DS)
 家電量販店から始まる専門店による大型チェーンが形成されるのもこの時代です。新宿や秋葉原で凄まじい競争から、次第に場所を郊外に移しての戦いになりました。その後を追うように郊外にこれまでには考えられないような巨大な店舗に、膨大な品揃え、広大な駐車場を特徴とする紳士服、婦人服、眼鏡、釣り道具、ゴルフ用品、スポーツ用品、カー用品、酒、おもちゃ(玩具)、家具、最後は本屋・古書店だったように思いますが、チェーン店が展開され始めます。サービス業ではパチンコ、銭湯・サウナ、そしてラブホテルが軒を連ねます。土地代が安く、当時、競合がない郊外の幹線道路沿いに建設され、車社会と化した地方に適合し、その集客力によって、それまでの駅前などに密集した商店街を崩壊させる契機となっていきます。ロードサイト・リテイラーと総称されました。ロードサイト・リテイラーの出現前に外食のファミリーレストランが幹線道路沿いに展開していまして、そのノウハウ、幹線道路沿線の地主から借りる、あるいは彼らに店舗を作ってもらって(ノウハウは全部、提供)借りるというスタイルが急速な店舗展開を可能にしました。

 やがて郊外にはこれらの大型店が並び、鹿児島だろうが、北海道だろうが、関東関西だろうが、郊外は同じ風景を晒すようになり、地方色を一掃していく無気質で、つまらないものにしていくことになります。その一方で、この時代から随分、先のことになりますが、これらの専門店チェーンは巨大な商品調達力を生かしてGMSの力をやがて弱めていくことになります。




ドラッグ・ストア
 ドラッグストアという業態に対する関心は、スーパーが日本である程度の地歩を固めた頃から、商業誌を中心にありましたが、日本では薬屋が薬剤師を中心に確固とした地位を保持していたことから、大型店を作って品揃えで対抗していくことが困難でありましたが、87年、マツモトキヨシの挑戦によって、その壁が徐々に壊されていき、薬事法の改正などの規制緩和もあり、21世紀にはいる頃には、薬屋はほぼ消え去ることになりました。まぁ、あまりにもお馴染みの光景なので画像は要らないかなとも思いましたが・・・・。右はネットから拝借した昔の薬屋さんの雰囲気です。こっちの方が貴重です。
      

(郊外GMS)
 一戸建て住宅が郊外に広がり始めると、それまで商店街の反対に抗しながら、駅前にあったスーパー、イトーヨーカドーやダイエーなどは、郊外に巨大店舗を建設するようになります。日本式大型スーパー、GMSと呼ばれるもので、ヨーロッパで言うところのハイパー・ストアに重なりあう業態です。食品から、衣料品、家電、雑貨などを大量に品揃えして百貨店に対抗する形です。一部では百貨店と称していた店もありました。この成功はGMSを日本一の小売業にのし上げ、72年にダイエーが三越を抜いていますが、その後にヨーカドー、西友などが百貨店を次々と追い抜いていくことになります。ダイエーは果敢にDSやSCに挑戦し続けていきます。ダイエーがバブル崩壊でおかしくなった後を継いだのがイオンです。バブル時代にはアミューズメント施設や文化施設、街を作りこもうという形ができあがっていきます。そのはしりが船橋のララポートであり、「美味しい生活」で述べた「つかしん」ですから、このGMSの発展とは、70年代半ば以降の背景となるできごとです。
津田沼戦争と呼ばれたダイエーとヨーカドー

ホームセンター
 確か最初はDIY(Do It Yourself)の店としてスタートしたと思います。私は不器用なので、あまり関心がなかったので、行ったのは随分、後だったように思います。80年代に入る頃には園芸用品や住宅設備は勿論のこと、自動車用品、食品や電気用品、生活雑貨、ペット関連まで総合品揃えによって大きく変貌していきます。


 このような商業の変貌は、人々のライフスタイルに大きな変動をもたらしていきます。かつて駅前などの商店街に買い物籠を持って毎日、買い物に行き、そこで近所の人達や商店主とおしゃべりをするという主婦の生活は、乗用車に乗って週に数回、買い物をする、そこで近所の誰かなど知り合いに会うことは極めて稀になり、日曜日にはより大型のショッピングセンターに家族で買い物し、ファミレスなどで外食をするという形に変貌して行ったのです。かつてに比べて家族の重要性は格段に増すと共に、気の合う仲間達との交流が、近所つきあい、親戚つきあいよりも、何よりも重みを増す生活になったのです。それはまた、風景を壊すことでもありました。田舎の国道沿いは、どこに行こうが同じ大型店が並ぶ貧相なものになって行く。駅前商店街の崩壊はまだこの時点では起きていませんが、序曲を奏で始めたのです。下は2011年の福岡の202号線の写真ですが林立する看板が周辺の風景を埋め尽くしている様子が分かります。

まちこわし大賞発表。福岡・住環境を守る会