サラ金=消費者金融の成立

 70年代も半ば以前、普通の人がお金を借りるのは、親戚、友人が主体で、後は会社から給料の前払いを受けるぐらいしかありませんでした。あとは質屋に何か物を持っていて借りるくらいしかありません。借金は罪悪と見なされていることもありましたが、金を借りる先も貸してくれる相手もいませんでした。サラ金(サラリーマン金融)の登場は衝撃的なものでした。担保も要らず身分を証明できるものさえあれば金を貸してくれるサービスはお金にルーズな人には極めて魅力的なものでした。
 しかし、金利は今日から見れば青天井のようなもので、あっという間に元本を超え、その取立ての凄まじさはサラ金地獄と言われ、一家心中が頻発する事態が起きます。当初は民事不介入だった警察も、マスコミの連日の報道もあって取り締まりに乗り出し数多くの規制を、箍をはめていくことになります。サラ金は膨大な利益を生み出し、創業者達は高額所得者ランキングに毎年のように名を連ね、御殿のような家を作り、サラ金に喘ぐ庶民を笑い飛ばしたのです。駅前一等地にはサラ金の看板が乱立するのです。


                            武富士会長宅(高井戸、研修所を兼ねた「真正館」

武富士のCM

留守を確認する業者

 写楽1983.7にサラ金に追い立てられた人や、追い立てる側の人をドキュメントで紹介しています。写真はいずれも本号からです。
夜逃げした後に残された都営住宅の内部
 既に数ヶ月経った後の様子ですが、部屋の中はついさっきまで生活していたように家具や食器が並んでいます。いかに慌ただしいものであったかが分かります。

追い込みにかけるという言い方をしていましたが、サラ金業者は取り立て屋に依頼して、回収に回ります。左はマンションの扉に督促のビラを貼る業者の姿。右の男は暴力団の取立て専門のプロ。ここではビラの枚数は少ないですが、サラ金の初期の頃はドア一面に督促のビラが貼られました。

 左は取立てに遭い、最後にすがる、最後の貸し手という、当時、マスコミに頻繁に出演していた杉山治夫という人です。追い詰められた人間から最後の最後に毟り取り、引導を渡す役目をするのです。このインタビューでも、この人に引導を渡された人は死を意識する、覚悟するようになると。債務者は杉山氏の言う事だけを聞くようになり、借金を返すためにがむしゃらに働くといいます。右の電話ボックスに貼られたビラはサラ金の勧誘チラシです。これでも少ないほうだとキャプションに書いてあります。

サラ金の債務に追い立てられて自殺した人の現場と返済を迫るビラ

クレジット・カードの時代へ
 クレジット・カードは1960年代から出現しますが、初めは銀行カードだったので自分の預金の範囲内で使うという感じだったために、あまり普及しませんでした。本格的な普及が始まるのは1980年にAMEXがゴールド・カードを発行するに当って大々的な宣伝を行ってからではないかと思います。詳しく分からないのですが、何らかの規制がこの頃に外れたのではないかと思います。カード会社はシェアを取ろうと、審査もロクロク行わずに、ばら撒きに近い形でカードを大量発行します。バブルに入る80年代も末になるとクレジット・カードを10枚近くを持つのが普通になっていました。
 サラ金利用も相当に進んできており、貯めてから使うか、使ってから貯めるか=カードで支払うかという宣伝文句もあって、便宜性から拡大していきます。それでも日常の支払いに使用するのには根強い抵抗感があり、スーパーなどの買い物にも使われるようになるのは、バブルが崩壊して以降の不況に突入からではないかと思います。
 カード使用社会の出現によって、日本の貯蓄率は目だって下がっていくことになります。しかし、まだ、日本はアメリカのようにカードの精算のために、毎月、追われる人はそう多くありませんが、そういう人が出てきていること、多額の借金を抱えた人間が一時しのぎにカードを使って買い物をし、それをディスカウント・ショップに売却することで金を得て、カードの方の借金は踏み倒すという現象が出てきています。自己破産者の急増はカードの普及と期を一にしているでしょう。
 カード会社の方も、さまざまな対抗手段をとる形で、未成年者などへのカードの発行には厳しい制約が課せられていくことになります。この写真のように学生証がクレジット・カードになっているというのは、この時代のカードを使うのは、格好が良いという風潮を示しています。




パチンコ・フィーバー

 庶民のギャンブルといえばパチンコ。 パチンコには戦前からの歴史があり、戦後、名古屋でパチンコ製造がされるようになって復活していきます。その後、連発式パチンコの導入で爆発的な人気が出たのは「思い出の暗がり」で多く写真に撮られたことでも分ります。しかし、その賭博性から連発式パチンコは禁止され、多くの日本人の経営するパチンコ屋は撤退していき、在日の人々が支える産業になって行ったのです。

 パチンコは70年代に、手動ハンドル式から電動式に変化し、テクニックによって玉を出すことから、誰でもが平等に玉を出せる形になります。その後、80年に三共というパチンコメーカーからドラム式フィーバー機が開発されると、爆発的なブームが巻き起こってきます。このフィーバー機はICチップを使ったもので、出玉が10倍に跳ね上がる機種であったことです。猛烈なスピードで玉が消費されると同時に、当ればこれまでの10倍になる、数千円だった遊びが、桁が上がって数万円使う遊びになったのです。

                 
 大きく変わったことは、場末の小さい店、在日の中でも零細な店が淘汰されていったことです。70年代には3千万円の資金で開業できたものが、80年代に入ると数億円、数十億円の投資をしなければならなくなっていきます。膨大な投資の要るホール型の大規模店に集約されていきます。資本の力によって、素晴らしいエントランスや雰囲気を持った店が生まれてきたことです。コンピュータ化、システム化が進んでいきます。

 バブル期に入ると以前のように立ってするのではなく、椅子に座ってパチンコをするようになり、女性客を多く集めるようになります。景品も多様化し、ブランドのバックなど女性が欲しいものになっていきます。 次々と新装のパチンコ屋がオープンし、特に郊外で駐車場付きの大型店が開店、チェーン化が進んでいきます。
 90年代に入るとプリペイド式の機械が現れ、より容易に、より清潔な雰囲気、楽しめる社交場になっていく。大変な金がそそぎ込まれるレジャーに進化し、パチプロの名も、かつてのアウトローのイメージが薄らいでいくことになったのです。