プロレスはマニアの方が多いので、まぁ、こんなこともありましたぐらいの紹介です。

燃える闘魂 アントニオ猪木

 この時代、プロレスに大きな波が訪れます。それを主導するのはアントニオ猪木です。確かにジャイアント馬場はその相手として大きな存在でしたが、時代をリードしていたのは猪木でした。この燃える闘魂は猪木のキャッチフレーズです。ここに掲げた写真はゴング別冊1982.10号で、猪木が怪我から立ち直ってきて復帰した時のものです。プロレスラーにとって怪我はいつものことですから、さてこれが何度目のものであったのか分かりません。このプロレス・ブームの中で実況放送を担当した古舘伊知郎は、畳み掛ける修飾語の嵐によって超人気アナウンサーになっていきます。
 Wikiから、この時代の状況を。『1972年1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラーを多数招聘することが難しかったため、流血遺恨試合、釘板デスマッチなどの際物的な試合も多かったが、対戦相手の良さを引き出し、試合毎に成長させる猪木の卓越した手腕のおかげで、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなど外国人エースが育っていった。
 さらに、WWFと提携してからは多数の外国人スターを呼べるようになり、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦など名勝負を繰り広げ、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。』



ザ・レスラー その光と影
 猪木のプロレス実況で名を馳せた古舘伊知郎
 必ずしも猪木がらみでないけれど、当時のスターが出ていましたので画像とリンクを貼っておきます。

ジャイアント・馬場 Wikiにたくさん書かれているので、付け加えることはありませんが、そのヌーボーとした、とぼけた味は人気がありました。
左はラッシャー木村

巨人アンドレ Andre the Giant
 20世紀最強の“大巨人”レスラー、アンドレ・ザ・ジャイアント。223センチ、230キロの巨体を駆使してスケールの大きなパワー&ラフファイトでマット界を席巻したが、リング外では寡黙であり、人目を嫌ったため謎も多かった。

ミル・マスカラス
 「千の顔を持つ男」といわれ、華麗な空中殺法を繰り広げました。

タイガーマスク
 元は梶原一騎の漫画だったんですが、その漫画の人気を利用した形で登場します。謎のレスラーという触れ込みは、ずっと維持し続けながら、代替わりしていきますが、これは初代です。Wikiから『イギリス遠征中だった佐山聡が、新日本プロレスの意向を受け極秘帰国し、タイガーマスクに扮して1981年4月23日蔵前国技館でダイナマイト・キッドを相手にデビューした。ジュニアヘビー級戦線で活躍、空中殺法が人気を博し、一大プロレスブームを巻き起こした。』


ハルク・ホーガン Hulk Hogan
 Wikiから抜粋。『1980年5月に新日本プロレスの「第3回MSGシリーズ」に参戦するため初来日。新日本のファイトスタイルを吸収して短期間でトップレスラーの仲間入りを果たし、アメリカに先駆けて日本で大ブレイク。今でもアメリカでは伝説的な存在であり、現在のWWEで活躍するプロレスラーの中にも熱狂的なファンが多数いると言われる。ベビーフェイスとしてもヒールとしても頂点を極め、プロレス史上最も成功したレスラーと言われている。』


ザ・デストロイヤー The Destroyer
 この中では力道山と闘ったことのある人ですから、当時でも相当に年をとっていたのでしょう。馬場さんとの絡みの方が多く、猪木とはそれほど多くは対戦していないでしょう。馬場さんの全日本プロレスの後輩を多く育ててもいます。

人間起重機テリー・ファンク Terry Funk
 テリー・ファンクも馬場さんとの関係が深いようです。日本ではベビー・フェイス(ヒーロー)、アメリカではヒール(悪役)と使い分けていたようです。


以降、プロレス団体は数年毎に離合集散を繰り返し、衰退するどころか、様々なスターを生み出し、やがて総合格闘技の世界に向っていきます。その契機を作り出したのがアントニオ猪木の果敢な挑戦であったといえるのではないかと思います。

小人プロレス
 残念ながら見たことが無いんです。当時は際物も良いところで、見世物としてもどうかなぁ・・というレベルでしたし、情報網が渇々になっていたこともあったのでしょう。当時の話は、「誰が小人を殺したか?」小人プロレスから見るこの国のかたちに詳しくあります。この文章の最初に、2002年、東京の片隅で1人のレスラーが誰にも看取られることなく息を引き取った。リトル・フランキー、身長はわずか112cm。彼の死によって、日本から小人プロレスは完全に消滅した。とあります。彼こそが、最後の「小人プロレスラー」だったのだ。初期の頃は小人レスラーの人数も多く、ものすごい盛り上がりがあり、『ドーン』という笑いが起きたともあります。当時は次に述べる女子プロよりも、はるかに人気があり、その華麗な技に女子プロの子達も憧れたとあります。

高部朝市「異端の笑国」から



 肉体的障害を逆手に取った挑戦は実に素晴らしいものがありますが、結局のところ人権団体というワケワカメの抗議を恐れるマスコミが彼らの内在する障碍者差別によって小人プロレスを押し潰したのでしょう。
女子プロレスと小人プロレスが同じリングに上がっていた時代のポスター 高部朝市「異端の笑国」から

女子プロ  全日本女子プロレス  ジャパン女子プロレス
 別冊宝島「おたくの本」で岩上保身氏が引用しているファンの声を紹介します。
「全日本女子は、女の子の世界なの。会場に来てるのは十代の女の子ばかりでしょ。そんなとこへ、俺なんか行きにくいじゃない。その点ジャパン(女子プロレス)はおっさんの世界なの。今やアイドル並みの人気のキューティ鈴木が、リング上でいじめられて「ああーっ」なんて声出して苦悶する表情なんかこたえられないもの。それにいじめ役の尾崎魔弓がこれまたえれえいい女で、おっさんにやたら人気があるんだよね。ロングヘアのワンレングスで、腰とかウエストとか、こんなにキュッと細くてさ、ちょっとお水ぽくて銀座のホステスみたいなカンジで、オヤジさんたち喜ぶんだ。もう会場は見てのとおり、男ばっかり。・・そのへんの中学生より弱そうな女の子と、神取しのぶとかデビル雅美とか、男でも勝てそうもないようなのがが、一緒にリングに上がってるんだから、ワクワクしちゃうじゃない。ここへ来るファンって、かなりの通か、相当アブナイ奴だと思うよ」
 まぁ、この話はともかく、76年に世界タッグ王者になったビューティ・ペア(ジャッキー佐藤、マキ上田)は、試合前に歌を披露し、その格好の良さでアイドル以上の人気を拍し、若い女性達の絶大な支持を集めたのです。かつて女相撲のプロレス・バージョンというキワモノ的な女子プロレスが、一般人がみるもの、TV中継も頻繁にされるメジャーに駆け上がり、女性の憧れの職業にランクインするのです。ビューティペアの人気を守り立てたるに預かったのは、ヒール役にダンプ松本がいたことも大きかったでしょう。以降、女子プロレスはヒール役も、アイドル的人気を誇るレスラーを擁することで長い人気を得ます。



キューティ鈴木                  左:ダンプ松本、右:井上貴子
 美人レスラーは男の子に強い人気がありましたが、その一方で悪役(ヒール役)も強い人気がありました。アジャコンダはそういう一人です。


 最後に大騒ぎという話の、85年の阪神タイガースの優勝を載せておきます。同じプロスポーツという意味しかありませんが。
 1985年、1番・真弓、3番・ランディ・バース、4番・掛布、5番・岡田らの強力打線(第2次ダイナマイト打線)が活躍し、本塁打セリーグ記録を更新する219本塁打を記録。21年ぶりのリーグ優勝が決定。バ−スが球団初の三冠王を獲得。西武との日本シリーズは4勝2敗で勝利、球団史上初の日本一達成となる。タイガース・ファンが狂喜し、応援歌の六甲おろし、優勝の決まった夜、道頓堀川で、夜中に戎橋から飛び込む姿が相次いだり、ケンタッキーフライドチキンのマスコットのカーネルおじさんも投げ込まれ、随分経ってから発見されるというオチまでありました。