ミュージカル Musical

 この時代にミュージカルが市民権を得た時代です。観客のほとんどは女性だったのではないかと思います。見ていない場合が多いので軽く行きます。

ベルサイユのばら 宝塚
 宝塚は全然、分かりませんが、ともかくこの時代に何かといえばのベルばらでしたので画像を貼っておくだけにします。原作は池田理代子の漫画で、それを長谷川一夫の演出で舞台化したものです。初演は1974年です。
1979年の公演

1975年花組公演

劇団四季 キャッツ

 劇団四季のWikiから『1971年に越路吹雪主演のミュージカル「アプローズ」をヒットさせてから、様々なミュージカルを上演しながら技術を蓄積、1979年に「コーラスライン」を上演したことが転機になる。日本の劇場は月単位契約のため、大ヒットを重ねても結局収益が限られる傾向があり、劇団四季は専用劇場の確保を模索しはじめる。1983年に西新宿の都有地空地を借りテント張りの仮設劇場を設置、「CATS」のロングラン公演に踏み切る。』とあります。
 劇団四季の発展に欠かせないのは浅利慶太の存在です。70年頃はアングラ演劇というよりは小劇場演劇に近い感じで、新劇的な要素が濃く、翻訳劇やら、児童劇、オペラなどを手がけ、こういう何でもやるという姿勢は、何ていいますか、節操がないというか主張がないというか、評価は?マークでした。私のようなアングラ世代の人間からすると、当時、東京キッドブラザースが大成功を収め大量の観客を集めていたのが、演出家の東由多加の死によって、劇団が消失、その間隙を縫って、より普通の人が楽しめるミュージカルを組み上げたという感覚でした。浅利さんはそんなことはないと言うでしょうが・・・。
 Wikiにあるようにキャッツの成功が劇団四季を一気にメジャーに駆け上げます。キャッツがアメリカのヒット・ミュージカルであることは、四季や浅利慶太の何かを意味しています。Wikiにある政界との繋がりや電通との関わりなど、やり手の演出家という側面が、演出家としての顔よりも、はるかに大きく、2010年代に入ってから韓流に占領される劇団四季という運命を示しています。東京キッドブラザースが切り開いた地平は泥にまみれていると私は思います。
 それはともかく、キャッツは、我が国の興行界の中でも突出した成功として記録され、上演回数にしても、各都市での公演にしても、あらゆる劇団の記録を塗り替えるものではないかと思います。
 日生劇場で蜷川幸雄の演出の公演を見に行ったことがあって、主演俳優は平幹二郎だったように思いますが、その折に日生の舞台やら雰囲気から劇団四季というものを感じました。つまりは女性によるミュージカルという縛りのなくなった宝塚だということです。

劇団四季「キャッツ」

 そんなに評判にはならなかったですが、ヤン・ファーブルが来日して、86年3月にPARCO劇場で公演を行っています。


 ここからは70年代のアングラ演劇に繋がるものですが、これらの演劇集団は、かつてのアングラ演劇に比べて、はるかに華やかで軽く楽しいものに変容してきています。それをミュージカルと称して良いのかはあるのですが、歌や踊りが必須のような形で入っており、毒の要素はほとんど消えています。

夢の遊眠社   野田秀樹
 この時代の最高に人気を得た劇団です。もの凄い混んでいて、開演前には劇場を十重二十重に押し寄せた観客が取り巻いていました。私のように並んでもわずかな人数しかいない処で長く見てきた人間には、人数で圧倒されましたし、そこまで無理するもんじゃないという感覚で、一度くらいしか見ておりません。なかなか楽しい舞台だと思いますがアングラ世代には・・・・。


  写真は別冊太陽「現代演劇60's〜90's」から

 さてこれ以降となると、名前は知っていても、最後のTGGを除いて全然、見ていないのでリンクと画像のみにしておきます。

第三エロチカ   河村毅  公式ページ
フリークス

写真は別冊太陽「現代演劇60's〜90's」から

月蝕歌劇団    高取英   公式ページ

写真は別冊太陽「現代演劇60's〜90's」から   このチラシはネットから拾ってきました。


ブリキの自発団  生田萬
 70年代のアングラ演劇の魔呵魔呵から分かれてブリキの自発団が結成されています。主演女優は銀粉蝶でしょう。
ナンシートマトの三つの聖痕
TOKYO芝居探検隊から
片桐はいり
写真は別冊太陽「現代演劇60's〜90's」から
ブリキの自発団から出た個性派俳優では片桐はいりさんを忘れることはできません。確か一度、会ったような・・・

このチラシもネットから

劇団300(さんじゅうまる)
 渡辺えり子
 渡辺えり子の劇団と言っても良いのではないかと思いますが、この「ゲゲゲのけ」で82年に岸田戯曲賞を受賞しています。私は見ておりませんのでコメントは差し控えます。主要劇団員から抜ける形での解散したことがあり、以降も執念を燃やしていますが、世間的には演劇の人というよりはテレビや映画での活躍の方が目立ちます。

画像は「芝居狂いがうつる本2」宝島から

第三舞台  鴻上尚史
 こちらの舞台も見ておりません。鴻上さんの評価は相当に高いものでした。Wikiにあるように81年に劇団を結成しますが、岸田戯曲賞を得るのは1995年『スナフキンの手紙』ですから、随分、時間がかかっています。戯曲的な要素が少なかったからでしょうか?

写真は別冊太陽「現代演劇60's〜90's」から
朝日のような夕日を連れてTOKYO芝居探検隊から

東京ヴォードヴィルショー   佐藤B作
 画像は佐藤B作「東京ヴォードヴィルショー」から。ヴォードヴィルショーからWAHAHA本舗を作り、やがてテレビで活躍することになる久本雅美、柴田理恵が出ます。


岸田事務所 岸田理生
 岸田さんは寺山さんの天井桟敷から出てきた人のようです。かなり特異的幻想な演劇だったようです。比較的早く亡くなられてしまいました。
糸地獄TOKYO芝居探検隊から

 この他、有名どころでは東京乾電池WAHAHA本舗、つかのところから出た加藤健一事務所があります。それぞれ個性的な俳優がおり、柄本明加藤健一木野花、先に触れた柴田理恵久本雅美などTVや映画で活躍する人が多く出ています。また、夭折しますが如月小春がこの時代の旗手です。70年代からの大きな流れがあり、社会的にも恵まれた形の最後の輝きとも言うべき時代なのでしょう。


TGG 東京グランギニョル   飴屋法水
 たった2年しか演劇活動をしなかったために伝説的な劇団になりました。オドロオドロしい雰囲気は、アングラ演劇的な雰囲気と同時に、次の時代を明らかにしていました。誰かが書いていましたが、この劇団のポイントは、包帯、眼帯、血のり、学生服、学帽、目玉、両性具有者であって、丸尾末広の描き出す漫画そのものを体現するものでした。そして団員資格が美少年であることとされ、そのことも時代の先駆け的な雰囲気を濃厚に持っていました。



出てきたのは飴屋さんで身体の方は嶋田さん。

写真は別冊太陽「現代演劇60's〜90's」から

(ペヨトル工房話)
 ペヨトル工房で最初に編集者として雇用したメンバーに国貞君と小川君がおりますが、その小川君が大学時代にバンドを組んでいた仲間が、佐野史郎さん、嶋田久作さんであり、このメンバー達との交流が小川君を通じて始まります。嶋田久作さんは、当時、東京グランギニョルという飴屋法水さんが主催していた劇団の看板スターであったことから、飴屋さんとの交流も同時に起きてきます。佐野さんは、当時、まったく無名で唐十郎さんの赤テントに属していたか、あるいは出たくらいだったかもしれません。
>
 嶋田さんは、あの異形な顔立ちで、おーという感じ。佐野君はあまり目立たない。飴屋さんは、彼女が「素敵な子なのよー」と私に言ったくらい、痩せた少年のような、今は中年になって面影もないですが、雰囲気でした。

 東京グランギニョールの芝居は私も彼らと一緒に見に行きました。観客はそれほど多くはなかったですが、人気は抜群でした。学生服をナチスの制服のように見立てて、怪しげな雰囲気を巧く作っていました。演出家としての飴屋さんの才能は相当なものでした。そうそう細野晴臣さんも招待客に混ざっていて、彼が挨拶に行っていました。

 飴屋さんは、まもなく東京グランギニョールを解散し、現代美術というよりメディアアート作家となっているようですが、三上晴子さんと結婚します。三上さんの仕事も、WAVEなどに取上げることになります。
 嶋田さんは、植木職人でご飯を食べながら、芝居や自分の好きなことをしていました。折田さんも加わるダンス・イベントに参加してもらっています。帝都物語で映画デビューする前までは、植木職人として生きる積りだったところは、実に小川君の友達らしいところです。そういえば飴屋さんも、三上さんと離婚した後、変な動物ばかりを蒐めたペット・ショップをやっていました。
 嶋田さんも、佐野さんも、小川君の友達らしい、性格の良い男揃いでした。この軽やかな生き方は随分、遠いものです。

     
嶋田久作                       佐野史郎                飴屋法水

すずなり劇場
 この時代を代表する小劇場で下北沢にあります。今は本多劇場というようです。


美雷樹
 渋谷の西武百貨店のすぐ近くの雑居ビルにあったアート・スペースで普段は絵画など美術関係の展示をしていましたが、時折、寸劇というか、ダンスというか、そんなものもやっていました。狭い所でした。なかなかシュールで幻想的、エロティックな作品を数多く紹介していました。ペヨトルで昔、係った女の子がオーナーの女性にかわいがられて入り浸っていたのを覚えています。1983年9月にオープンし、2006年9月に閉じました。
ロベルトは今夜 田村連