竹の子族  Street Musician

 Wikiから概要を。『原宿の歩行者天国(ホコ天)に、関東近郊から集まった「竹の子族」の若者たちが、ラジカセから流れる音楽に合わせて独自の振り付けで踊る若者達がで溢れかえり急増。ブーム最盛期には2000名以上の竹の子族が踊っていた。ラジカセから流す曲は主にディスコサウンドで(「アラベスク」「ヴィレッジ・ピープル」「ジンギスカン」等の80年代キャンディーポップス)で、衣装は原色と大きな柄物の生地を多用したファッションで、アラビアンナイトの世界のような奇想天外なシルエットが注目を集めた。化粧についても男女問わず多くの注目を引こうと鮮やかなメイクをしていた。その衣装の頒布元が、「ブティック・竹の子」(1978年オープン)であったことが「竹の子族」の由来。』

 私も当時、何回か見かけたことがあります。歩行者天国に架かる横断歩道橋の上も、竹の子族を見る見物人で、もみくちゃ状態で、私もその一人でありました。まぁ、ともかく大変な人数でした。竹の子族の報道は海外でもされ、独特のファッションが注目されました。

FORCUS
写真時代83.7 この下のお嬢さんはツッパリに登場したおネエさんです。右下は「かわいい」をいっぱいくっつけた女性ですが、これでは踊れませんし、他でみるように少ないタイプです。ちょっと意図的な写真です。
写楽1981.9    朝日新聞
 竹の子族というと女の子が注目されましたが、男の子達のグループも大変多く、女の子達のファンが沢山つきました。男の子達の中からスターが生まれました。

1980.5.5原宿 加藤嶺夫「東京消えた街角」
永井守「’80s」より




 彼らは、ロックンローラー族と竹の子族に分かれ、取材によれば、数十のグループの代表者による協議機関があって、カリスマ性のあるトップを選出し、ホコテンの場所取りや、喧嘩などのトラブルを自らが解決しようとする独特の社会を形成していたとされています。内部統制された非常に礼儀正しい中高生が殆どで、スカウトマンに見出されデビューしたタレントも多かった。その一人が沖田浩之です。
        永井守「’80s」より
 こちらは少し年月が経ってオールディーズ・スタイル(1950年代スタイル)が流行った時期の歩行者天国。黒が目立っています。
アサヒグラフ1982.1

 竹の子族は圧倒的に普通の若者達で構成され、多くが中高校生でしたが、妄想で取り上げる暴走族上がりやツッパリでふれる不良少年や少女たちも、一部、含まれていました。名前の由来の「ブティック・竹の子」も、原宿の店ではなく歌舞伎町の店という話もあり、最初はディスコでの踊りが発祥という説もあるくらいです。このため自分の子供達が原宿で踊るのを止めようとした親も多数いて、駅などで着替えて参加するメンバーも多数いました。
 ホコ天はミュージシャンだけではなく、多様なパフォーマンス集団がいました。


平凡パンチ1984.12.10
永井守「’80s」より
 ローラー族の中で最高の成功者は一世風靡セピアであったでしょう。私のような人間が覚えているのですから。

哀川翔や柳場敏郎の若かりし顔があります。


ストリート・ミュージシャン
 この時代に我が国で初めてストリート・ミュージシャンが現れます。繁華街から、あっという間に地方都市に広がっていきました。音楽への夢なり希望だったのでしょう。フリーター達の自己表現の一つだったように思います。我が国のストリート・ミュージシャンは海外と異なり路上に行く人にお金を求めないことも特徴でした。外国人達もやがてここに加わるようになります。

                                   Jamgo Five 路上ライブ

 THE POP LAND

 ストリートライブで画像検索すると大量の画像があります。