ディスコ・ブームの少し前から話が始まります。70年代の後期、私のようなGoGo世代は決まったステップも無く、音楽に合わせて身体を動かしていたのと違って、この頃は、向かい合って踊るのではなく、皆が同じ方向、つまり正面を向いて一斉にステップを切る形になっていました。トレーニングなしで、こういうものに加わるというのは無謀の限りで、全然、付いていけない、そんな風でした。
  私自身は評判になったので、確か、渋谷かどこかに若い人に連れて行ってもらったことがありました。入り口には黒服の兄さんが、客をチェックしていましたし、オッサンの行くところではありませんな。多分、私が36,7歳くらいの頃です。
 こういうダンスが日本中で大ブームで、向かい合って踊る欧米スタイルと、一線を画すもので、当時、業界ではミーハー系と呼ばれた現象だそうです。欧米もある程度は流行していたのでしょうが、踊り方がまったく関係なく始まっているという意味では、初めてのことではなかいかと思います。

KORN[70’sディスコ伝説」
「昭和ロマネスク」写真は共同通信

ディスコ・ブーム

 Wikiから『1978年、ジョン・トラボルタ主演の映画 「サタデー・ナイト・フィーバー」が日本公開されて大ヒットすると、新宿、渋谷、上野、池袋などの繁華街に多数のディスコが開業した。大勢の「ディスコでフィバる(熱狂する、の意)」若者を生み、・・・70年末からABBAやBee Gees、Chic、Boys Town Gangなどが流行、次いでYMOのテクノブームにより、テクノカットと呼ばれる、YMO風にもみ上げを鋭角にカットした刈り上げに、JUNやROPEのモノトーンスーツ姿がフロアのダンサーの大半を占めたこともあった。』 時代は竹の子族がホコ天で溢れていた頃です。DJという職業が確立したのも、この時代です。若者達の憧れの職業に躍り出ます。
 新宿歌舞伎町には300坪を超える大型店が次々とオープンします。週末にはディスコを訪れる人だけで3万人いたとされ、20を超えるディスコがあり、有名どころとで、「カンタベリーハウス」、「ニューヨーク」、「B&B」、「シンデレラ」、「アップルハウス」、国内最大で、2000人が入るダンスフロアをもっていた「ビックトゥゲザー」、「ブラックシープ」、「インディペンデントハウス」等々があったと言います。
  
サタデー・ナイト・フィーバー
渋谷のディスコ(82年)
写楽82.10
 80年代に入ると、日本中の街やディスコの風景を変えてしまったというサーファー文化が、押し寄せます。ボードに乗らない陸(オカ)サーファーが、エンジェルフライトのパンツに代表されるサーファー・ファッションに身を包んでディスコに繰出した。どこのディスコもトロピカル・ドリンクを置き、店の演出もトロピカル一色で、数年にわたってサーファー・ディスコが業界の主流になった(KORN[70’sディスコ伝説」)。
KORN[70’sディスコ伝説」
宝島84.9
 橋口譲二さんの「視線」の文章を引用します。「閉店間際に一人の少年がとびこんできた。駅から走ってきたのか、すでに汗びっしょりだった。・・身動き一つできないホールの人の群れの一部が、少年の方に動いた。・・ロックンロールが流れ出した。すると人の輪がくずれ、遅く入ってきた油のにおいのする少年が小さなステージの上に押し上げられた。彼が踊りだした瞬間、おどろきに近い歓声が上がった。うまいのだ。新宿で一番大きいマンモスディスコの人間全部がステージの上の少年に集中し、ロックンロールの音楽にあわせた手拍子がホールを包む。・・・一瞬いいようのない感動をおぼえ、僕は体中が熱くなった。」

橋口譲二「視線」

 他に新宿テアトルビル5Fに入っていたニュ−ウエ−ブ系のディスコ「ツバキハウス」、2丁目の「フルハウス」。中でもツバキハウスは宝島などの雑誌に取り上げられ、毎週火曜日に行われるロンドン・ナイツのDJ大貫憲章さんも有名になります。東京庭園というブログに当時の経験談が掲載されていました。リンクをどうぞ。こういうブログは何時まで掲載されているか分からないので、ツバキハウスのことに書かれた部分を一部、引用しておきます。
 『「新宿ツバキハウス」は新宿区新宿テアトルビル5Fに入っていたニュ−ウエ−ブ系のディスコだった。今はもう無い。当時「ディスコ」といったらソウル系の曲をかけるところがほとんどだったので、この店にその名称は不適切な気もするが、当時は「クラブ」ということばもなかったので仕方がない。
 ツバキハウスはテクノ流行の頃にはもうあって、雑誌に取り上げられる80年代初頭のテクノ系ディスコといったら、新宿二丁目の「フルハウス」かこの「ツバキハウス」だった。
有名な「ロンドン・ナイト」や「ヘビメタ・ナイト」は少し後になってからの企画だったと記憶している。・・・ツバキハウスの営業はもともと始発が動く少し前までであったが、新宿でディスコ帰りの娘が殺害されるという事件があり風営法が改正されてからは0時閉店を余儀無くさせられていた。当時のディスコでは珍しい、ロックファンの聖地のような場所だった。 』

ツバキハウス

岡崎京子「東京ガールズブラボー」

新宿ツバキ・ハウス

かわぐちかいじ「ハード&ルーズ」

 歌舞伎町のディスコはすべて千円程度で飲み食いでき、朝までいることで“顔”になる、常連客として優遇されたとあります。当時は、何軒かのディスコをはしごするのが当然であったようです。


新宿ロフト                                  スタジオJAM
宝島82.12
BOX                              新宿ディスコ・マップ
新宿ニューヨーク

 82年、中学3年生の2人の少女がディスコの帰りに殺害される「新宿ディスコ殺人事件(未解決」が起こり、深夜営業の禁止・未成年者の入店規制など取締りによって、新宿のディスコは衰退していきますが、それに取って代わるように六本木が主役に躍り出てきます。

コスモポリタン(六本木)                         クロコダイル(神宮前)                   ミニ・ピテカンと紹介された福岡ガーデンバー

 ディスコの聖地のスクエアビルは、地上10階、地下2階は1階、4階以外はすべてディスコで埋め尽くされ、ここにも週末1万人が押し寄せたといいます。スクエアビル内の「玉椿」、「JAVA-JIVE」、「GIZA」、「VENUS」、「BINGO BANGO BONGO」、「NEPENTA」、「fou-fou」、「KISSRADIO」、「レキシントン・クイーン」。 そしてサーフィン・ブームから、サーファー専用のディスコ、伝説の「キサナドゥ」が79年にオープンします。当時のスクエアビルなどの事情が詳しく掲載されているページがありましたのでリンクしておきます。2011年に亡くなられた谷本捷三氏は当時、スクエアビルの中に10軒のディスコを持っていたとされていますし、バブル時代には60軒のディスコを経営していたといいます。六本木の帝王という言葉は安易ですが、当時の雰囲気を伝えるものです。


 もうバブル時代は目の前に来ています。このディスコ・ブームが、マハラジャ、ジュリアナを誕生させる巨大なエネルギーになっていったのです。



’79全日本ディスコ大会
京都China Express
こちらは現在も営業を続ける六本木ガスパニック