DCブランド
 Wikiから『1980年代初頭に「anan」や「POPEYE」などのマガジンハウス社が発行する雑誌を中心に火がつき、その後「JJ」などの他社の雑誌も取り上げるようになり全国に広まった。DCブランドの店舗の販売員が「ハウスマヌカン」という符丁で取り上げられるようになり、人気職種となった。
 ブームの全盛期は1983年頃から1987年頃までであり、絶頂期のセールの時期には、これらのブランドの店舗が入っていた「丸井(OIOI)」や「PARCO」などのファッションビルやデパートの周辺に朝早くから行列ができるほどであったが、1985年に始まったバブル景気の全盛期と、それを巻き起こした急激な円高を背景にした「ジョルジオ・アルマーニ」や「ラルフ・ローレン」などの高級輸入ブランドの国内市場への本格的進出や、ボディコンブームなどにより1980年代後半に終焉した。』
 豊かさがもたらしたお洒落への関心がブームを巻き起こし、着られれば良い、70年代のようなシンプル・ライフなどのメッセージ性が濃いものから、自分自身をファッションによって表現する時代が始まったのです。

 『DCブランドの誕生は、昭和45年に三宅一生が「三宅デザイン事務所」を開いたことに端を発し、同年、菊池武夫が「ビギ」を興し、翌年には松田光弘の「ノコル」、やまもと寛斎の「やまもと寛斎」がスタートし、48年に川久保玲が「コム・デ・ギャルソン」を設立して、Dの主力どころがほぼ顔を揃える』(別冊宝島87「ファッション狂騒曲」兵頭正英「DCブランド・その神話と現実」)。
 
 DCブランドが成功した理由を兵頭氏は同じ文章の中で次のように整理しています。
  @明確に絞り込んだ服のキャラクター
  A型数を少なくした売り切りゴメン(追加生産しない)体制
  B高付加価値、高単価な服
  C一般誌へのおびただしい広告出稿、見返りパブリシティ記事による“高付加価値”の創造
  D金太郎飴的な定型販売術
  Eいままでなかった新手法による店舗演出
  F急速な多店舗展開
 これらの仕掛けを有機的に結びつけて急拡大の基盤システムにしてしまった点を挙げています。デザイナーが好きでつくった服は、数は多くはないけれどファンを作り出し、「買うぞ」という思いで来た客には、生産効率、物流効率等から極端に型数を絞り、非常に高額な商品群を神々しく見えるように仕組んだことです。


別冊宝島87「ファッション狂騒曲」89年1月
 70年代アヴァンギャルドで三宅一生、やまもと寛斎、高田賢三のイベントや顔写真をご紹介したので、他の方々を紹介します。

山本耀司
 80年代のトップ・デザイナーの一人。特に、パリのプレタポルテ・コレクションでのデビューは衝撃的で、現地のジャーナリストたちには、彼の作品が「破壊」か「抑制」かサッパリ分からなかったといわれる。しかし、エレガンスという固定観念を覆すという彼のスタンスは、J.P.ゴルチエ、コムデギャルソン、(一歩先行していた)イッセイミヤケらとともに、やがて前衛ファッション(アヴァンギャルド)という評価に収まっていった。作風は、シンプルな構成が多く、自由な着こなしができ、独特な素材を用いてコンテンポラリーな物に作り上げる技術が評価されている。(モードの世紀から一部、省略)

東京人「東京モードファイル」1996.4
川久保玲 Comme des Garcons
 81年にはパリでコレクションを発表、2年後の83年には第1回毎日ファッション大賞を受賞。以後、パリのプレタポルテ・コレクションで常に上位に位置されるようになる。80年代初期の作品は、黒をモチーフにした「ボロ・ルック」や「プア・ルック」がヒットしたモードの世紀から一部、省略)
カラス族という異名も轟く川久保玲風の黒尽くめスタイル
東京人「東京モードファイル」1996.4

 渋谷ファッションマップと別冊宝島87「ファッション狂騒曲」89年1月に掲載された地図です。渋谷が若者を惹きつけている大きな要素がファッションにあることを語っているようです。ファッションは若者に大儲けをするチャンス、ジャパン・ドリームを与えるものでありました。ピンクドラゴンでは不良少年のための服で一日1千万円の売上があったと書いてあります。時代はバブルに突っ込んでいますから、割り引かなければなりませんが、DCブランドが引き出したものであったでしょう。

 ブランド店のバーゲンには大量のお客が押し寄せ、ラフォーレ原宿のグランドバザーには徹夜組も出る騒ぎで朝7時開店という、通常の4時間前。列は原宿駅まで延びた。バーゲン・ハンターと呼ばれる人々が多くおり、それだけの関心、買い意欲が盛り上がっていました。当時はまだ、90年代後半に現れるアウトレットはないことにも注意して下さい。ラフォーレ原宿も1977年の開店ですから、この時代そのものです



 この当時の一般の方々のファッションを最後にご紹介します。
ストリートファッション:こういう言葉が出るのも、この時代からですが。


    東京人「東京モードファイル」1996.4
                      男の子がスマートかつ可愛らしく装うのがDCブランドの特徴とコメント。

 若者のファッションへの関心は、クラブ・シーンなどの関係からロンドンに向いていました。ロンドンは当時、パンク・ファッションで大いに盛り上がっていました。ロンドンに向ったバイヤーが見つけたのは、古着屋に並ぶモッズでした。

古着の流行と MODS

 Wikiから、『モッズ (Mod, Mods, Modernism or sometimes Modism) は、イギリスの若い労働者がロンドン近辺で1950年代後半から1960年代中頃にかけて流行した音楽やファッションをベースとしたライフスタイル、およびその支持者を指す。モッズファッションとしてよく連想されるものとして、髪を下ろしたMod Cut、細身の三つボタンのスーツ、ミリタリーパーカー、多数のミラーで装飾されたスクーターなどがある。』




 東京モッズ:トーキョー・モッズ・グラフティの書評から。一部省略。『モッズとは、イギリスの文化・歴史的背景からかなり複雑な階層構造を織り成しているらしい。だが、この東京モッズとかいう人たちは、モッズのごく一部だけを取り出して表層だけをなぞり金科玉条のごとくそれを後生大事に守り続ける。本家モッズとは全く別の人たちのようだ。
 個人主義の国の文化なのに、皆判で押したように殆ど同じ格好をして群れを成している。あまつさえそれは日本人の貧相な体型にはそぐわない。』

 パンクとモッズという時代も違えば、中身も対照的なものが、同時に同じ宝島という雑誌に掲載される。多分、モッズの方は、この頃から流行し始めた海外の中古服、1950年代、60年代のものを好んで着るというものであったでしょう。何たって安いし、モノが良いし、丈夫だし、宝島のタイトルのように、
憧れのロンドンファッション=ニューロマンティック・ファッションであったからです。思想もへったくれもない、この時代の軽さの一端です。当時、流行し始めた菊池武夫のデザインもモッズでした。

ロンドンナイト・シンジュク                                    TAKEO KIKUCHIのファッション・デザイン 宝島85.2


バースト#1 奥平イラ 宝島85.2
 このモッズ・ブームに乗ったのが東京スカパラ、東京スカパラダイスオーケストラ(85年結成)でした。時代の流行に乗った感じです。

 ただ、この流行はどこまで広がったかは、私には分かりません。MODSを採り上げたのは単に私の趣味でしかありません。時代は以降、バブル突入していく訳ですが、DCブランドは最先端の地位から退き、若者達はアメカジ(プリントTシャツ、スウエットパンツ、スニーカー、フラッグバッグ)、渋カジ(インポートジーンズ、ポロシャツ・ストライプのシャツ、靴はスエードのインディアン・モカシン)へ、大人たちは輸入ブランド品を身にまとう形へと移っていきます。