メディア/ビデオアート
 この時代に業界ブームというのがありました。特定の業界への関心でしたが、その最大のポイントはTVなどを代表とするメディアでした。 仲間内のネタ話、楽屋話が、持て囃されたのです。楽屋話は本来、舞台の上に上げる、ネタにするのは、芸のない証拠のようなもので、それまではそういうものを披露して観客に媚びるというか、自分達の特権的立場を誇示するというか、そういうものは否定されていたのですが、これ以降、ネタに困るとゾロゾロと、仲間内でTVの中で自分たちだけが盛り上がるという惨状を示すことになるのですが、まだ、この時代はそこまでには至っておりません。新鮮な感覚で大いに人気を拍します。軽妙の「お笑い」の中の演者たちも、初期の頃は別にして、楽屋話をする、彼らの後に続くもの達は、特に顕著でありました。

メディア学
 こういう時代背景の中でメディアに関する注目からメディア学が話題になっていきます。そこで最初に取り上げられたのは60年代の末ぐらいに日本でも出版される マーシャル・マクルーハン(Herbert Marshall McLuhan)の手による数多くの著作でした。60年代末にも注目されたのですが、実質的なメディア感覚は80年代でした。それはアメリカに比べて遅れていたという側面も強かったからです。つまり「美味しい生活」で見られるように、CMが商品宣伝の枠から大きく踏み出し始せる時代に我が国も突入したという意味合いの濃いものでした。
 マクルーハンはテレビ初期の感覚の強いものでしたから、この時代はメディア論ばかりではないんですが、ニューアカの一人に数えられた ジャン・ボードリアール(Jean Baudrillard)の「消費社会の神話と構造」などの著作が大人気になります。 マーケティングを真面目に考える人のほとんどが読んだのではないかと思います。


 このブームの中でニューアカ系の雑誌では特集が何度も組まれ、そこで論文を書きまくったのが武邑光裕氏です。 私には難渋な中身でよく理解できないことがありましたが、ご興味のある方は古書店などで探せば出てくるし、大きな図書館にもあります。同じ頃に性的な刺激による商品の販売効果を狙うサブミリナル効果に警鐘を鳴らしたメディア・セックスも出版され話題になりました。サブミリナルの禁止が放送法に謳われるのも、この時代ですが、やがてオーム真理教事件でTBSがサブミリナルによる画像を入れ込む事件が発覚し、大問題になるのは10年先になります。
 
 メディア学はコミュニケーション理論として大学の講座になり、発展を遂げていくことになるのですが、この時代に論じられた中身はTV学に近いものであって、テレビ媒体に強く魅入られたものであったことが特徴です。だから多分、この時代の論理は今では無視されていると思います。

 さてそんな世の中でしたが、この時代に写真週刊誌FORCUSが出版されます。1981年のことです。時の話題を大きな写真と捻りの利いた短文で構成する作りでしたが、非常なる人気を拍します。元々はフランスで発行されているフォトマガジンを基にしたものでしたが、Wikiによれば『創刊当初は、有名写真家を使った芸術性の高い雑誌を目指したものの、低迷した。その後、張り込みや突撃取材を行う週刊誌へと変貌を遂げ、成功を収めた。販売部数はピーク時に毎週200万部を突破し、印刷が追いつかず東京と大阪の2箇所の印刷所で同時に印刷したほどであった。「フォーカスされる」などの流行語まで作られ、一大ブームとなった。』。一時は電車に乗ると車内中、全員がFORCUSを読んでいるという状況がありました。

 その後、類似した写真週刊誌が続々と発行され、一時は10誌ほどにもなったのではないかと思いますが、行き過ぎた報道から、86年、タレントのビート・タケシによるフライデー襲撃事件が発生して以降、急速に販売を落として行き、影響力を失い、やがて2001年廃刊に至ります。

 FORCUSも代表だとは思いますが、80年代は雑誌の時代とも言われ数多くの雑誌が創刊されました。この時代はパロディものが流行った事も大きな特徴でしょう。ビックリハウスが典型です。パルコ文化の一つでもあります。


 この時代のテレビの話題に
ニュース・ステーションがあります。1985年にテレビ朝日で夜10時からの放映で、当時、歌番組などの色もの司会を勤めていた久米宏を起用して、誰にでも分かりやすい、軽妙な語り口が人気を呼び、ニュース番組として驚異的な20%台の視聴率を叩き出します。久米によってアメリカでは普通にあったニュース・キャスターという仕事が日本で初めて成立し、以後、他局でもニュースはニュース・キャスターが紹介するものだという流れが作り出されていきました。
久米宏
 その人気の高さから、発言が注目されるようになり、何しろテレビ朝日=朝日新聞でしたから、左翼的な言辞がとかく批判を受けるようになります。それはキャスターが変わった今日でも変わらず、保守陣営から強い批判を招くことにもなります。

 ワイド・ショーは60年代の終わりぐらいから、視聴率をいかにかせぐかという課題から、朝、昼、昼3時、深夜の時間帯に、時間は次第に伸びる傾向があったのですが、FORCUSにみられるスキャンダル性が強化され、ニュース・ステーションのニュース・キャスター的なものに刺激を受けて
ワイド・ショーは、視聴率稼ぎに過激さを増していきます。突撃レポーターが出現し、中でも芸能レポーターとして梨本勝がタレント並みの人気を得ていきます。女優に転身する前の泉ピン子も、その一人でした。

 レポーターの取材ぶりは、それまでの日本人の他人への配慮とか、心情を思いやるなんてことを無視したものでありました。そういうあり方に皮肉交じりに警鐘を鳴らしたのは放送作家として既に名を得ていた景山民夫でした。

純サマは戸川純宝島85.2

 景山民夫は「トラブル・バスター」という小説でテレビの内情を告発していく訳ですが、その中身は巨大化するメディアに対する絶望感に満ちていました。この批評さえも映画にし、漫画として売り出していくメディアの凄まじさですが、振り返ればメディアの全盛時代の傲慢さであったのでしょう。インターネットの力の前に旧メディアがひれ伏す2010年代の世界からは、まさに隔世の感があります。



 テレビ番組の中でテレビが直接的にマーケティングというか、地域に向かって投げかけたものに天才・たけしの元気が出るテレビ!!があります。これも85年に日本テレビ系で放映が始まっています。Wikiによれば『ドキュメントバラエティの元祖であり、「テレビとは真実を伝えるものだ」という社会的な共通認識を根本から打ち砕いた革命的な番組だったと評されている。最終回でたけしは「今のバラエティでやっていることはすべてこの番組でやってきた」と、この番組がもたらした影響を自負した』とあります。

 しかし長い時間が経った今日では番組は覚えていても、さてどんなものだったのか・・・。失恋傷心バスツアー、十五少年漂流記、100人隊が行く、高校生制服対抗ダ­ンス甲子園 、たけしメモ、どっきり!すべり台雪見風呂、ボクシング予備校、勉強して東大に入ろう­ね会、勇気を出して初めての告白、早朝バズーカ。これが10大人気企画だそうです。YouTubeは何時まで残るか分からないので自分で探して下さい。番組で取り上げられた浦安フラワー商店街はどうなったのでしょうか。

 この時代でも旧メディアだったラジオも深夜放送が、80年代初めに、数多くの新たなパーソナリティを迎えて第二次ブームに入って行き、その後、80年中盤ごろからオールナイトニッポンの独壇場へと変わっていく流れがあります。2010年代の状況では想像することも不可能になっているのではないかと思いますが、試験勉強などで深夜まで起きている中で、子供達がバックグラウンド・サウンドとして音楽を聴くことは昔からあって、そこに音楽の紹介などのパーソナリティがついて、若者向けにいろいろなおしゃべり、トークをする。悩み事の相談やら、身近な出来事や事件を話す。視聴者のはがきの紹介をするというのが、非常な人気を得ていく流れがあって、学校で友人同士がその話に盛り上がるような、そんなことがあったのです。パーソナリティには当時、若手でデビューして間もない頃のタモリやら、タケシやら、明石屋さんま、伊集院光などのお笑い系やら、泉谷しげるなどのミュージシャン、タレントの稲川淳二、アナウンサーの糸居五郎などが出演したりしたのです。
ビートたけし
鶴光


ビデオアート
 ビデオそしてビデオカメラの低価格化と急速な普及は若者達に、中でもアーティストを目指す若者達に新たな道具を与えました。撮った画像を自由に編集するようになると音楽と組み合わせた新しいアートが生まれてきます。その中から飛びぬけた才能が生まれます。原田大三郎 & Radical TVが時代を代表するものとなり、坂本龍一と組んだ科学万博のソニー館での「TV War」は一般に知れることは少なかったですが、業界内では高く評価されました(画像などは科学万博にあります)。以降、NHKに起用され、名前が出ることは少なかったけれど、全国放送の中で大いに活躍しました。

 Radical TVを説明するのは厄介なので、「ラジカルTV」というのは、1956年生まれの原田大三郎さんと1960年生まれの庄野晴彦さんが1985年に結成したユニットで、CGやビジュアル・エフェクツを多用した斬新な映像表現で当時のポップ・カルチャーに殴りこみをかけた、いわば日本におけるVJの始祖とも言えるアーチスト」という紹介がありましたので引用させていただきました。






 Radical TVのもう一人の主力メンバーである庄野晴彦さんは、原田大三郎さんと90年にソロ活動とWikiに書かれていますが、メジャーに成り上がって行く中でいろいろあったようで、別れてから95年に下のGadgetというゲームは、この手が好きな人の間では大評判になりましたし、高い評価を受けました。



立花ハジメ

 立花ハジメさんはテクノに入れていたのですが、ビデオ・アーチストとしての側面も強い人ですので、こちらに移しました。原田大三郎と並んでいた時代もありました。原田さんがNHKに引っ張られて、ビデオ・アーチストとしての活動が減り、立花さんの方がアーチストとしての活動は多くなったように思います。

宝島85.12

MA TICARICA


ビデオ・スペース
 立花ハジメさんが典型というか、彼が作り出したロック演奏と映像を重ね合わせていくパフォーマンスが普及し始め、マルチ画面を使ったパフォーマンスや沢山のTVモニターを並べて鑑賞するスペースも生まれます。ここらはカフェ・ブームも絡んでいます。

                                                原宿ピテカントロプスの「ドラマンス」に出演する竹中直人 宝島84.9