アニメ<オタクの出現>


 70年代、劇画の誕生によって漫画の世界が巨大なマーケットになる中で、アニメが時代の先頭に踊り出てくる。それは劇画の時と同じように、静かなものであったように思います。最初はマニアというか、夢中になる世代が小中学生であったからかもしれません。この時代に大流行する宇宙戦艦ヤマトにしろ、ガンダムにしろ、私ら劇画世代からすると、先にあるのは松本零士であり、ガンダムの一つ手前の合体ロボットの永井豪、石川賢なのです。劇画と比較した表現としてのアニメであったので、純粋にアニメでワクワクする、絵が動くことでの感動の経験を持ちません。この時代以前の手塚治虫の鉄腕アトムのアニメでも、漫画との絵の違い、声のイメージの違いなどで、私なんかからすると、どうしても子供が見るもののとゆう偏見から逃れる事はできません。漫画アニメのテーマ・ソングを熱唱する連中には付いていけないのです。
 アニメについて、なかなか思い入れができませんが、オタク・キングこと岡田斗司夫氏の話を読んでいて思うことは、トリビアとも言うべき、実に細かい差異を見つけてくる力でしょう。読み込む力の凄まじさを感じさせるものがあります。ここらがその前の新人類世代とは異なるところのようです。多分、ここに出した映像類も全然、分かっていないと、言われるのでしょう。まぁ、仕方ありません。アニメはこの時代以降、キャラクター・ビジネスとして、TV、映画、紹介本などのメディア・ミックスとして、多様な形に爆発的な形で広がっていきます。
 アニメの成功は、やがてアニメの登場人物の吹き替えを担当する声優への関心を高め、アイドル的な人気を拍するようになります。ここらについても、私には完全に理解を超えた現象で、世代間で認識のギャップをこれほど象徴するものはないかもしれません。
 分からないことは無理して書かないことが私の原則ですのでWikipediaなどを参考に事実とされていることを列記します。


宇宙戦艦ヤマト

 宇宙戦艦ヤマトのTV放映は1974年の開始です。裏番組にアルプスの少女ハイジがあって惨敗し、2クールで番組は打ち切りになります。ところが番組終了後からファンからの再開の要望が殺到し、ヤマトのテーマソングのLPが大ヒットしたのを受けて映画化に踏み切ります。77年の映画公開時には、前夜から子供達が徹夜で劇場の周りを取り囲む状況に、劇場側は午前3時に開場するという事態になります。
 人気を決定付けたのは、新宿・京王デパートでのヤマトグッズの販売会の成功で、絵入りTシャツ、ポスター、セル画などが飛ぶように売れたことで、ヤマト人気に大人達が気づき、目の色が変わったというか、キャラクター・グッズとして、プラモとして、そしてテレビのアニメとして復活、映画も次々と作られていくことになります。岡田氏によれば、宇宙が海であるというのを発見したのが、松本零士であり、以降、世界の宇宙ものの映画の大部分が宇宙を海と見立ててロケットの形状から舟に変わったとか。スピルバーグのスターウオーズは宇宙戦艦ヤマトのパクリだという説まで出るほど、世界的な影響を与えたと言います。話半分にしても、まぁ、大変なものですが・・・・。

イスカンダル編

波動砲発射シーンの詰め合わせ

実写版予告


機動戦士ガンダム
 機動戦士ガンダムのTV放映は1979年です。宇宙戦艦ヤマトと同様にTV放映はこけます。もともとの原案でもロボットの登場は予定されておらず、玩具メーカーの社長の意向で強引に入れられたとか。社長の頭には合体ロボの人気を意識していたのでしょう。バンダイがキャラクターをモビル・スーツ・プラモデルとして引き継ぐ形になるのですが、プラモデルが少しづつ売れていく中で、アニメ誌がガンダム特集を打つことで次第に注目され人気が上がり始めます。そこで映画化の話が出て、TV用のシリーズを映画用に作り直して、一年半ごとに公開する三部作として上映することになります。映画の公開前から人気が爆発的に拡大し、プラモはバカ売れし「ガンダム現象」と言われるようになっていきます。1981年2月22日、新宿で「アニメ新世紀宣言」イベントが開催され、1万5千人の数多くの若者が詰めかけ、新たな時代を予感させるものとなりました。ガンプラと呼ばれるモビル・スーツ・プラモデルは販売個数2億個を超え、1982年にはプラモデル市場は過去最高の市場規模になったと言いますから、オタク新時代にふさわしいものであったのでしょう。
近藤和久「機動戦士ガンダム MS戦記」




(ペヨトル話)
 1987年頃に、何人かが辞めた後に、急遽、三人を雇用します。彼らはペヨトルにとって従業員としては第3世代であり、前の世代とは大きく違っていました。初めて見るオタク世代でした。 経営者であり編集者であり、デザイナーでもあった彼らはこの新しい世代に、反発と軽蔑を抱きます。なんだアイツラは! この感情がオタクを自身の雑誌に入れ込む妨げになっていきます。まだ世の中はオタクを知らない頃のことです。
 オタクという言葉は中森明夫が始めたとされ、コミケに集まる若者、特に男の子達を対象にした言葉だったようです。 オタクの指向を思うに、この時代の博物学ブームとどこかリンクしたものを感じます。博物学ブームの仕掛け人は荒俣宏で、19世紀を中心としたヨーロッパや日本(江戸)の博物学を取り上げ、その博識、薀蓄ぶりは、圧倒的です。荒俣さんの弟だかの交流がはあり、また荒俣氏自身にも原稿依頼をしています。
 オタクは、アニメやガンダム、恐竜など、空想的な対象を博物学的に収集、分類し、薀蓄を傾ける人達で、オタク世代は、先の中森、岡田斗司夫、大塚英志が代表的な存在といえるのでしょう。いずれも1958年生まれ。彼らと数年しか違わない。この数年の違いが、ニューアカとオタクが分かれる境をなしていて、早く走り過ぎた彼らが、ニューアカの凋落と共に落ちていくのに対して、新たな時代が80年代の後半から90年代に始まります。ここにバブルの時代が重なっていきます。

 夜想やWAVEはニューアカ的ではありません。ある意味ではオタク的な要素が強かったのですが、時代の先端から次第に後退していきます。 その最大の理由は、年下の、いわば格下の人達の能力を見抜いて使っていく感覚がなかったことです。原石から磨くことができない。従業員に対しても、下働きでこき使うこと以外はできなかった。チームとして編成し、互いに刺激しながら成長していくことは、彼らには遠いい話でしかなかった。
 もう一つの理由は、オタクの感性に比べて、重過ぎる。最近の彼女のデザインを見ても、良いのだけれど、重い。軽くできない。昔の方がまだ、軽い。なかなか難しいことです。