マラソン

 当時、テレビや新聞でのマラソンに関する報道の印象から、お話します。本当のところとは違うかもしれませんが、一視聴者の意見としてみて下さい。

 マラソンのスピード化に天才的な選手が我が国で登場します。最初に話題に上ったのは宗兄弟(宗茂宗猛)でした。 二人の苦しげに助け合いながら走る姿は感動的でした。 そこに中山竹道が登場します。 こちらは本物の天才肌でした。2時間10分台、10分を割る記録を次々と出し、宗兄弟の息も絶え絶えの雰囲気に対して彼はヘラヘラしていたので、マスコミからは敬遠されるところが多く、損した部分がありましたが、その軽やかな走りは多くのファンを惹きつけました。
 そこに割って入る形で、早稲田大学競争部の中村監督によって育てられた瀬古利彦が登場します。
彼のレース運びの卓越さは終盤の追い込みで、天才中山は何回か苦杯をなめることになります。

瀬古利彦

中山竹道

宗兄弟


 彼らの登場によって男子マラソンの全盛時代が我が国に訪れ、世界をリードしていきます。数ある国際大会で優勝や上位入賞は当たり前のように報道されました。しかし、オリンピックでは期待されながらも、メダルは遠いものでした。
 90年代には谷口浩美などに受け継がれますが、90年代も後半になると世界と互角に勝負できる人材は消え、むしろ
女子マラソンの方に才能のある娘たちを輩出し、有森裕子から、2000年シドニー・オリンピックで高橋尚子の金メダルに到達します。彼らや彼女たちを育てたコーチ達もまた、名伯楽としてマスコミにたびたび取り上げられ、それが先の早稲田大学の中村清であり、小出義雄であり、山梨学院大を駅伝の覇者に育てた上田誠仁だったでしょう。これらの選手の活躍を支えた人の中に競技用のシューズの開発を手がけた三村仁司さんも忘れてはならないでしょう。

 全盛期を迎えたマラソンにアマスポーツではあるけれど、人気のある選手を招聘するのに主催者がお金を出す、優勝者には賞金を出す形が生じてきます。プロ化ともいえる現象が目立つようになりますが、それは同時にアマスポーツでご飯が食べられる時代が近づいてきたことです。 豊かさが生み出したものですが、本格化するまでには、まだ少しの時間があり、バブルの時代を通過した2000年代ではないかと思います。

市民マラソンの時代
 健康ブームもあり、海外で1970年頃からジョギング・ブーム、有名人や大統領などの政府の偉い人が、朝、ジョギングする姿が広く見られるようになったことから、日本でも一大ブームが起き、各地で盛んに市民マラソン大会が開催されるようになります。その最も代表的なものは1967年から始まった青梅マラソンでしょう。普通の人が誰でも参加できることが人気を呼び、17000人を超える人が集まり、80年代に入る頃には、各地で市民マラソンの開催がブームになっていきました。ジョギング自体は走り過ぎはかえって身体に悪いという話が出て随分、下火になりました。