日本のスーパーマーケット

 スーパーマーケットの話に入る以前にチェーンストアの話を少しします。

チェーンストア
 日本では欧米の刺激を受けて先駆的なチェーンストアができますが、規模は小さいものでした。メーカーの販路として小売店を編成するということが行われ、その代表が戦前では資生堂、戦後では松下電器ショップなどの店ができてきます。また、靴、洋服、薬、文具など卸が主催する形のチェーンも戦前、ありますが、これらは多くがボランタリーチェーンであり、販路の意味が強く、小売が主体的にチェーンを作ってメーカーや卸に対抗していくという形は生まれません。戦前は戦後主流になる直営店を多数営業する形態はほとんどなく、ほとんどが既存の小売店を販路として確保する形に留まります。
 スーパーマーケットは1960年代、衣料品のチェーンも同じ時期、ドラッグストアは1980年代、バラエティストアという形はできず、アメリカのワンダラー・ショップという形をまねた100円ショップがバブル崩壊以降の2000年近くになってからですから、アメリカの小売業の発展とは、随分、様相が違い、アメリカ流の小売業が成功するまでに、相当に長い時間がかかったのです。
 これを我が国流通業の遅れと見るか、アメリカ流小売業への抵抗と見るかは、人それぞれだと思いますが、我が国ではほとんどというか、私以外は「遅れ」とみなす風潮です。近代的な小売業の出現が遅れた理由に中産階級の出現が遅れたとありますが、工業化を背景にした標準品の大量生産、大量流通、大量消費を進歩とみなす「遅れ」であって、商業の文化としては創意工夫の衰弱ではなかったかと思います。日本中どころか、ヨーロッパでもアメリカでも地域文化の基層となっていた商店街の賑わいが喪われていく、祭りが消えていく。これが本当に進歩だったのかという疑問です。

スーパーマーケット
 1953年、我が国で最初のセルフサービス・スーパーマーケットを東京・青山に開店したのが紀ノ国屋です。
 当時の商店ではレジスターはなく、代金は「溜め銭」というザルの中にお金を入れて、代金の精算をしていました。レジで精算というのが画期的なことだったのです。

紀ノ国屋の歴史より

 レジが何故、スーパーマーケットの誕生に関係があるのか??  アメリカでは違っていたのは前の節で明らかですよね。ここらが日本のスーパーの特質に微妙に絡む話です。 あまり長くならないようにざっとお話します。 この下の関係図は矢作敏行「小売イノベーションの源泉」に掲載された矢作氏が書いた関係図です。 この絵で注目されることは左側の経営指導の4大系統、右側の業界団体です。中はスーパー導入初期の頃の先進的な企業群です。
 日本NCRはアメリカNCRの子会社でレジのメーカーです。 NCRは日本の小売業へのレジ販売にスーパーを育成することでレジの普及拡大ができると見込み、様々な形で小売業の「近代化」「現代化」の支援を行っていきます。支援グループの中で大きな予算を持っていたのはNCRですから、その役割は大きなものがあり、交流会やセミナーなどを通じて有力小売業者にスーパーを開店するよう、推し進めていくことになります。最初に先進的なアメリカのスーパーを紹介するツアーを企画したのもNCRだったと思います。

企業との連携を行っていきます。


矢作敏行「小売イノベーションの源泉」 1950年代後半の動向

 この図で注目されることがいくつかあります。有力企業にやがて日本有数のチェーンになるダイエーの中内氏以外に名前がない。そしてスーパーの理論的な支柱となる渥美俊一氏の名前がないことです。渥美氏は昭和62年にペガサスクラブを作りますから、この図に出てこないのです。イトーヨーカ堂伊藤氏ややがてジャスコ(現、イオン)になっていく岡田氏が出てこないのは、当時は衣料品スーパーを志向していたからです。中内氏にしても、最初は薬の安売りで名を馳せるのですから、食品出身は決して多くはなかったことです。西友の立役者であった堤清二さんは百貨店出身ですし、異質です。
 この出自の問題は、食品というものの古くからの取引とは無縁のところから出発することで大胆な改革を可能にした側面と、食品というものの本質、限界を理解しないという側面を今でも持っていると言えます。
 下の写真は昭和37年頃の団地近くのスーパーと紹介されています。カートがなく、買い物用の籠も見えない。棚が低い。生鮮の売り場が小さいのは、写真の範囲外で、テナントで専門店が入っているからかもしれません。完成形になるのは、まだ少し後のようです。


「美しい日本 東京」国際情報社

GMS(Genaral Merchandising Store)総合スーパー
 まちづくりステーションの定義がまとまっていたので引用します。『ゼネラル・マーチャンダイズ・ストアの略で、衣・食・住関連の商品を中心に、各種の商品を幅広く扱っており、量販店と呼ばれることもあります。
 特徴としては、チェーン・オペレーションによって多店舗展開を行っていることや、自社で開発したオリジナル商品の比率が大きいことです。代表的なものとしては、ダイエー、イトーヨーカ堂、ジャスコ、マイカル、西友、などがあります。』

 GMSという業態が何時出来上がったのか、そしてこれをどう評価するのかは、業界の中でも、学者の中でも決まっていないと思います。上の5社が典型であり、それ以下は多く食品スーパーと呼ばれました。スーパーが急激に発展していくのは、70年代も半ば以降、80年代です。先行したのは、これらの5社で資本力と果敢な挑戦力がすべてではないかと思います。GMSと誰が名づけたのかという点では「日本型GMSは消滅するのか?」では中内さんが自分が作ったと言っています。
 GMSはアメリカにもありますが似て非なるもので、当時はスーパーは百貨店になりたいのだという説、アメリカの総合型ディスカウンター、今日では断トツにウオルマートですが、あの頃の流行はKマートでしたが、ヨーロッパではハイパーマーケットを産み出し、日本ではGMSになったと言われていました。
 大きな特徴は、すべて金太郎飴のような店作りをしたことです。売り場だけを見れば、それがヨーカドーなのか、ダイエーなのか、どこなのかまったく区別が付かない。コピーすることを恥とも思わないし、当たり前というもので、業態の開発は完全にアメリカのコピーしかなかったことです。GMSという業態はオリジナリティがあったのでしょうが、個々には個性がない。品揃えの独自性もなければ、チラシも大同小異、となれば価格しかないけれど、それも互いにチェックしあうというものです。これはその後に誕生するコンビニも、ドラッグストアも、変わらない。

ダイエー志木店 他のブログの画像を拝借しました。自分で写したものに時間があったら入れ替えます。

 郊外の駅前に複数階の巨大店舗をヨーカドー、ダイエー、ジャスコ、西友が争って建設します。戦国時代さながらの国盗り合戦と業界紙には書かれました。地元商店街の激しい反対の中、土地の買収を巡ってキナ臭い話も飛び交いました。札束で頬を殴るという感覚です。その頃はバイヤーを三年もやれば家が立つとまで言われ、納入業者からのリベートも凄まじいものがあり、今日のような紳士面をスーパーはしておりませんでした。商店街などの中小小売業者の抗議を受けて、政治は大店法の規制を法律で行いますが、これらの大規模GMSの競争を制限することになり、むしろ大企業を利する結果になります。それというのも通産省は小売の近代化を標榜しており、アメリカからの要求も、GMSが輸入品の販売が多いこともあって、大型店を擁護する方向にあったからです。バブル崩壊以降、過大な投資を行ったダイエー、西友などが潰れたり、身売りをしますが、以降のデフレ時代にGMSは大きな壁に突き当たり、停滞を続けることになります。


食品スーパー
 食品の扱いが多い(50%以上)のスーパーと言いますが、定義はあいまいです。セルフサービスを基本とし、生鮮食品、加工食品を扱い、一部、雑貨も扱うもので、衣料品なら下着類とか、日々の生活のベーシックを支えるもので、GMSのように家電から日用雑貨、衣料品では背広や外出着まで扱う幅広さとは異なります。スーパーの原型のような言われ方をすることがありますが、スーパーの歴史から言えば、あてはまらないと思います。
 非常に幅広い事業者がおり、数百店を擁するチェーンもあれば、単独店もあり、GMSに匹敵するような品揃えと、1千坪を超える規模の店もあれば、コンビニ並みの30坪くらいの小さな店もスーパーと称している場合もあります。東急ストアなど電鉄会社の経営するスーパーも多く、郊外に発展した住宅地の需要に応えるものです。ここにもそれほどの個性は見られません。品揃えも似たようなもので、生鮮品を扱うために、その良し悪しが消費者の評価になります。

マルエツ金杉店(船橋)
 代表的な食品スーパーのマルエツです。画像は「住みたい街がきっとみつかるエリアガイド」さんから拝借しました。これも自分で写した画像に入れ替えるまでです。


 日本の戦後の商業はアメリカのスーパーなどを一生懸命にコピーしてきた歴史です。コピーはしたけれど理念とか、手法は日本式のもので、多くの問題を内部にはらみます。例えば問屋流通に依存しているということもありますし、個性化されない、皆同じ金太郎飴。独自性の少なさは、我が国のこの業態が創造性から相当に離れ、消費者に容易に飽きさせるものとなっている。専門店は多く滅びましたが、それに代わる独創性はどこにもない。商業というものは、こういうものでしかない、とすれば実に不幸であると考えます。具体的な批判は、「日本のスーパーへの原論的批判」を参考にして下さい。商業における独創性の欠如、組織内に業態を開発するエネルギーや変革を受け容れていく土壌の薄さが今日の低迷の一端を担っていると考えます。