百貨店の形成

 明治以降、戦前までの期間に流通の革新を行ったのは百貨店でした。 長い間、流通業のトップを占めたのも百貨店でした。 スーパーが百貨店を超える、つまり日本一の座を三越からダイエーに奪われた時(1972年)には一般ニュースになるほど百貨店の座はそれまで揺ぎ無いものでした。しかし、以降、百貨店が流通の主役に返り咲くことはありませんでした。

 その百貨店も簡単に欧米からコピーしてできましたではなく、江戸以来の三越呉服店が三越百貨店に衣替えしましたというのでもありません。 百貨店が登場する以前に勧工場というのが登場します。


勧工場
 明治大正1868-1926ブログから勧工場についての記述を引用します(一部、修正)。
 『明治11年(1878)1月20日、東京永楽町辰ノ口に、府立第一勧工場なる施設が開場しました。「勧工場(かんこうば)」の誕生です。
 東京府が「内国勧業博覧会」の売れ残り品を販売するために開場させたこの施設は、殖産興業を進める博覧会の主旨を常設店舗で展開し、それらをさらに促進させようとするもので、欧米のバザー(Bazaar)やフェアー(Fair)といった、娯楽性を兼ね備えたマーケットを下敷きにしたものでした。勧工場が画期的だったのは、様々な種類の商品を場内で同時に並べて売買させる、陳列販売方式を採用したことでした。店頭に商品を置かず、店に行って話をすると商品を奥から出して来て交渉で売買を成立させる、「座売り」と呼ばれる販売形態が一般的だった当時の社会において、土足のまま入ることが出来、陳列された商品(値札付き)を見ながらそぞろ歩ける場所(でも購入も可能)で比較して買うことのできる売買形式は非常に画期的なものでした。経営者の異なるさまざまな売店が一つの店舗の中に入り、日用品、洋物、呉服、文房具など、幾種類もの商品を揃え、それを陳列し、販売していた。
 開場直後から人気を集めた勧工場は、明治13年(1880)に民営化されると徐々にその数を増やし、明治16年(1883)には東京市内に12の店舗が登場、以降各地の都市中心部に相次いで登場し、「勧工場時代」とも呼ばれる一時代を形成していきました。
 明治35年(1902)には東京下27ヵ所と勢力を奮った勧工場でしたが、徐々に人気に翳りを見せ始めると、大正3年(1914)にはわずか5ヵ所にまでその数を減らし、完全に衰退していきました。
 同じ頃、旧態依然の営業方式で、一時は勧工場の影にまわった呉服店が再生を始めていました。陳列販売を導入し、さらに日用品全般に販売品目を拡大して「百貨店」へと変貌を遂げ始めた呉服店は、豪華な店舗と質の高い品物を揃え、勧工場と逆の高級志向によって活路を開いて、新たな都市文化の主役へと代わっていくのです。』

 明治三十二年新橋に開業した博品館勧工場は、煉瓦造り三階建で、モスク風の鐘塔付きの時計塔が設置されたモダンな作りだったため、東京名所となり多くの錦絵や絵葉書で紹介された。多くの人が、勧工場での楽しい思い出を書き綴っている。人ごみの紛れて、売店を見て歩くことは無上の楽しみであったようだ。子供連れで多くの家族が勧工場を訪れ、人にぶつからずには歩けないような盛況であったと書かれている。
 明治の時計塔から新橋博品館

 当時の大繁華街浅草にも勧工場が開業します。

浅草 梅園館                    共栄館

 岡本かの子さんの小説「女体開顕」(昭和15年)の一節に「小売店を廊下の両側に並べて万般のものを売る勧工場は、後の百貨店のあきない振りを先駆したもの」とあります。函館には、明治15年8月4日付けの函館新聞に「恵比須町の勧工場の例ですが、間口が9間2尺、奥行き11間で102坪の平家で、その中に60もの区切りを設け、千種万類の品々を売っていた−などの様子を知ることができます。


名古屋栄町の勧工場の栄町中央バザー
 勧工場の面白いことは、百貨店の原型になっていることです。テナントとして専門小売店を入居させていること、販売方法が上に書いてあるように陳列販売方式を採用したこと、規模が大きく外見からも目立つものであり、西欧風にしたことがあります。評判にもあるように、ウインドウショッピングをするお客が相当数いたようですから、百貨店の「入店自由退店自由」があったのでしょう。百貨店が荘重な洋館の外見を現すのも、欧米の影響もあるでしょうが、勧工場の成功も大きな影響を与えたのでしょう。


百貨店
 百貨店は1852年フランス、パリのボン・マルシェに始まるとされています。鹿島茂「デパートを発明した夫婦」が詳しくこの時代背景と共に書いています。本の紹介に『衝動買いを誘うウィンドウ・ディスプレイ。演奏会、バーゲンなど集客戦術。〈必要〉から〈欲望〉へと、消費のキイワードを一変させた天才商人、ブシコーとその夫人の足跡を追う。』とありますように、買い物、消費をエンタテイメントにしていった最初の革命が19世紀末に起き、それが今日まで続いていることです。
ボン・マルシェ

 
日本における百貨店の最初は明治37年(1904年)の三越の「デパトメントストア宣言」に始まるとされています(Wiki「日本の百貨店」)。ほぼ同時期に高島屋、松坂屋などが開業していき、勧工場を圧倒していきます。
三越:
名所・東京案内/大東京:最新撮影原色版
日本橋白木屋 明治44年開業
 Wikiにも書かれていますが、百貨店が誕生した当時は欧米などと同じく、現金販売による資金回収の速さと大量販売・大量仕入による低価格戦略を採り、完全に買い取り、売れ残っても返品しない仕入形態を採るのが普通であったのですが、1987年頃には買い取りはするが、商品が売れ残ると返品できる「委託仕入れ」というか、売れた時点で仕入と見なす「売上げ仕入れ(消化仕入)」が大多数を占める、不動産業に堕ちて行く。流通の革新者の姿を喪ったのです。
 また、百貨店といえば外商が有名で、Wikiにありますように『法人や多額の購買が見込める有力な個人客を対象に店舗外で直接顧客宅を訪問して商品を販売する事業部門で、当然「陳列式」ではなく、「正札」価格より値引きを行い、現金ではなくツケ払いであるなど百貨店の定義とことごとく矛盾するが、「現金掛値なしの呉服店」のほとんどが「固定客に対しての掛売り」を当然の様に行っていた伝統があり、それが番頭制度(またはお帳場制度)とともに引き継がれたもので、呉服店系の百貨店では初期から当然の様に存在していたサービスであり、部門である』とありますように欧米にはないものではないかと思います。
 下の写真は昭和37年頃の銀座のデパート。
「美しい日本 東京」国際情報社

 下の白黒写真は「オリンピックを迎える首都東京の展望」から
三越
池袋駅前
 あまり変わっていないようには見えますが、西武百貨店の階層が低い、右はパルコではなく丸物百貨店であること、駅前に市電があること、ロータリーや道路脇に乗用車が駐車していることなど、いろいろ違っています。 この下の写真も似たような時期でしょう。屋上にヘリポートがあるのが斬新で解説では生鮮品などを運ぶためとありますが、巧く行ったという話もありませんから、立ち消えになったのでしょう。駅反対の西口側に東武デパートが見えます。

 百貨店食堂:子供の憧れでありましたが、この昭和30年代半ばと見られる写真は大人ばかりが写っています。子供を連れて買い物に行くという感覚ではなかったのかもしれません。注釈に安くて気安いと評判とありますから、大衆食堂の少しレベル上くらいの感じでしょうか。