呑み屋というものが誕生するのは何時かというのも、難題です。よく時代劇で現在の居酒屋のような店が出てきますが、ああいうものが街中にあるというのは、想像し難いものです。酒はそう簡単に手に入り難いもので、酒屋というのは、昔は非常に大きな商売であって、そうそう卸してくれるものでもなかったからです。幕府にしろ藩にしろ、こういう風紀が乱れるものを、そう簡単には許可しないからです。
 酒を飲むというのは、非日常的な祭りとか、結婚式とか、葬祭以外に、日常的には風俗=廓がらみでしかなかったのではないかと思います。昔は庶民が飲める酒のかなりの部分、自家製だったのではないかと思います。いわゆる清酒は非常に高価だっだたのではないかと。酒造りが豪商であったということも、それを裏書しているようにも思います。
 明治以降、西欧の文物が入り込んできて、生活が豊かになり、開港場を中心に、女と酒という組合せが生まれ、歓楽街以外の場所にも呑み屋が出現してくるのではないかと思います。従って都会に労務者やサラリーマンが大量に発生する時代背景からすると、やはり大正期くらいからではないかと思います。

 戦後の混乱期には、ちょっと一杯ひっける形の呑み屋が大量に発生してくるのでしょう。

 
 左は昭和22年の有楽町、下の方で紹介するすし横丁の前身となるもので、戦災で焼け出された後、「復興」なったという感じの横丁です。右は新橋。煙突が林立している。上はJR。線路脇の呑み屋。

横浜

(呑み屋横丁)
 戦後、闇市から商店街に変化する頃に、呑み屋も商店街周辺に集住するようになります。どこの駅でも駅を降りると、家路に帰るサラリーマン達を待ち構えるように呑み屋横丁があったものです。 大きな街には、それぞれ独特の名前を持った横丁があり、有楽町のすし横丁、渋谷の恋文横丁、飲んべぇ横丁、新宿の銀めし横丁、池袋の人世横丁等々です。 横丁とまでは行かなくとも、○○小路なんてのはいくらでもありました。間口の狭い店が密集していました。
 昔のサラリーマンは、ちょっと一杯ひっかけてから帰るというのが普通であり、 同僚や先輩後輩がいっしょであれば、何軒かをはしご酒をするのは当たり前の世界でした。 私の父なんてのは定時に仕事は終わっているのに、帰宅するのは、毎度、午前様でした。
 酔うことで日頃の憂さを晴らす。クダを巻く男達の姿が日常的に見られたもので、それが“男のつきあい”だったのです。 それができないような野郎は、どうしようもねえ、お高く留まりやがって、というセリフが飛び交いました。
 酔っ払いに対して、酔ったことのできごとだからと、その場でどれほど乱暴な出来事やら、セクハラ的な事が起きても、許されるというのが、かつての我が国の文化でありました。 飲みニュケーションと言って、本音を聞きだしたり、我慢をしてもらう説得材料としてアルコールは便利な代物でした。 二日酔いで出勤しても、酒の席を陽気にする人間ならば、愛すべき存在であり、逆に、どんなに仕事ができても、酒を同僚達と囲まない人間は排斥されたのです。 酔うことを楽しめない私のような人間にとっては苦痛でしかない宴席でありました。
 そうかと言って、ある一線を越えれば、やはり制裁は待っていたのですが、それでも酒を飲まない連中への排斥に比べれば、たいしたものではありませんでした。 シラフで女をくどけるものかというのが私達の時代の男達です。大酒飲みが愛されたのです。そのハチャメチャな生き方が家族はともかく、世間では好意をもって迎えられたために、飲めない酒を無理に飲む、それがやがてアル中に進んでしまう例も多くありました。 酒を飲んで家族に乱暴をするというのは、日常茶飯事のように、かつてはあったのです。
アサヒグラフ 1957.5 御徒町1964
 かつては食事をロクロク摂らずに、アルコールとわずかなツマミで済ますという飲み方が相当にあり、特に甘い物なんかは男が食べるものじゃないとされてきました。 陽気に飲んで騒ぐ人よりも、陰気にしょうもない愚痴を呟きながら、ただ、ひたすらアルコールを胃に入れる輩が多くいたものです。 最近は、こういう飲み方をするサラリーマンは大いに減りました。非常に多くの地方都市の呑み屋横丁は潰れ、それでも数軒残っている場合がありますが、裏寂れた雰囲気が濃く、歩いていいる人も多くはありません。 それでも、こういう雰囲気が好まれるのでしょうか、今の時代の多くがそうであるように、大都市の一部だけに、大いに賑わうというか、店が集まっています。 その賑わいは、かつてと同じか、それを上回るものがあります。また、最近、若者の街である高円寺や西荻窪あたりの居酒屋は路上に机を出して飲む姿が多くみられ、昭和30年代のような雰囲気を作っています。

昭和30年代頃 有楽町昭和42年
高田馬場 有楽町すし横丁 土田世紀「俺節昔の居酒屋
小針美男「東京つれづれ画帳」 有楽町ガード下
春日昌昭「40年前の東京」

エルスケン「ニッポンだった」

横浜都橋ハーモニカ横丁トムの気持ちから
昔の渋谷 名古屋
 渋谷も同じですが、小さな川沿いに飲食店や呑み屋が沢山、集まっていました。名古屋は飲食店の裏側が見えていて、入り口は逆側です。祇園や大阪も同じです。
大阪なんば
「東京人」95.#98

 こういう風景を見ていると、次第に飲むことよりも食う事、旨いものを食う方に移行しつつあることが分かります。
新宿思い出横丁
 新宿の思い出横丁は昔に比べて随分、きれいになって普通の人も出入していますが、以前はスラムの一角という雰囲気で、しょんべん横丁と称される独特の臭気、ドヤ街が醸し出す煤けた、ザラザラした感触があり、普通の人は、勇気がなければ入れなかったし、まともな人が飲みに行く場所ではありませんでした。
イシワタフミアキ撮影「昭和幻影



なぎら健壱「東京のこっちがわ」2枚とも


国際情報社「美しい日本 大阪」昭和37年発行            左は蟹スキ 右はシャブシャブ 当時は大阪でも稀な鍋物

糸満屋(沖縄)               居酒屋写真館 から左右共に                           静岡市青葉横町

                          

大井町:資料 東京通本                                狩撫亜礼「ボーダー」

宮崎市(2008年) 大友克洋「さよならにっぽん」

カウンター越しのこういう上がりかまちも減った?山上龍彦「喜劇新思想体系」          イシワタフミアキ撮影「昭和幻影


立替前ですが、今でも同じような雰囲気の吉祥寺いせや


東京人2002.4 右は自由が丘「金田」、左は茅場町「五穀家」

渋谷恋文横丁   田中哲雄「東京慕情」                 映画 居酒屋兆治 左は高倉健


 サラリーマン達の、愚痴やら気勢を上げる場所、飲みニュケーションと呼ばれた社内融和と交際の場所であったものから、ただの酒好きが集まる場所になったようです。だからサラリーマンのメッカであった新橋、神田が衰えているのでしょう。 巨大なビジネスビルが立ち並ぶ品川辺りも、かつてのように呑み屋が大増殖する雰囲気は欠片もありません。あるのはチェーンの居酒屋くらいです。

 チェーンの居酒屋に、こういう雰囲気を求めるのは無理があり、チェーンの居酒屋は本当の酒好きからは遠いものになってしまった。ここに危機の源泉があります。時代はゆるやかな停滞にあり、組織の締め付けのはけ口という機能はもはや必要ないものになりつつあるのでしょう。
 最近、就職した若者から話を聞くと、同期の間でも、廊下であっても目を合わせることも少ないということでした。 ましていっしょに飲みに行くことの少なさがあるのでしょう。昔のように上司の悪口でも言わなければ、耐えられないなんてことはなくなったのでしょう。 個人性が濃くあるのでしょう。

 有楽町の高層ビル群と小さな呑み屋街の対照を見ていると、ヨーロッパの大都市と同じような感覚に捕らわれます。ヨーロッパでも労働者達の立ち飲みのスタンドがあり、外からのぞけるような雰囲気の所が結構あります。 我が国も、ヨーロッパと同じ雰囲気に立ち至ったというべきなのか。先進国の大都市は巨大なブランドショップが軒を連ねる通りがあり、洒落たレストランが並び地域があり、ちょっと脇に小スペースの立ち飲みの呑み屋があるという形になってきた。どこも同じような風景になってしまった。良い悪いはともかく、そういう処に来たのだということなのでしょう。


消失




イシワタフミアキ撮影「昭和幻影