商店街というのは戦前からあるのですが、一部の繁華街に限定されるもので、大発展をするのは戦後のことです。
 戦後の混乱から焼け残った地域を中心に商店街が姿を現すのは昭和20年代も半ばくらいであったでしょう。それは同時に闇市が衰微し、商店街に入れ替わっていく時代です。商店街は多くが国鉄や私鉄の駅周辺に広がったことから駅前商店街とも呼ばれました。家業として戦前から続く店は呉服商などの老舗ですが、商店街の中に占める割合は、そう多くはありませんでしたが、しかし、江戸の頃の伝統、誠実な商売、信用を大切にするという意味では、闇市と一線を画すものでした。会社というものが充分に発展していない戦後の昭和30年代頃は、多くの人々に仕事を与えたのは、流通業、商店街であったのです。当時の開業資金はそれほど大きくはなく、比較的起業しやすいものでありました。それこそ様々な業種店が商店街を埋め尽くし、入れ替えも激しかった。廃業も多かったけれど、それ以上に起業も多かった。銀行も信用組合も、これらの商店街相手に融資をし、資金も集めたのです。

 商店街は、現在も同じですが地域ごとに組合を作っていました。米屋、酒屋などの許認可が必要な商店が商店街の核となることが多くあり、彼らが商店街全体の面倒をよく見たものでした。核となった理由は、許認可の関係で一定の規模があり、商売が安定していて、年がら年中、忙しいということは少なく商店街全体の面倒をある程度、見れる余裕があったためでしょう。地域の商店街はお祭りなど地域の祭事に係り、地域の伝統や風習を守る担い手でもありました。
 また、同業種の組合もあり、全国的な組織を作っている場合も少なくなく、様々な活動を通じて政治と繋がったりしていました。



(商店街)

 この商店街の写真は昭和30年代ですが、昭和40年代もそれほど大きく変化はせず、このように商店街の通りは人で溢れておりました。 米屋、酒屋、八百屋、魚屋、肉屋、乾物屋などの食品の専門店や文房具屋、本屋、雑貨屋などが立ち並び、 脇の路地には床屋、古本屋、そば屋、中華そば屋、洋食屋などがありました。 今や、生きている商店街を探す方が大変で、残っている商店街は、普通の町ではなく、名物として、町興しに敢えて残している、 地域住民が残す努力をしている感じになりました。 昭和40年代頃はスーパーは規模も小さく、商店街に溶け込んでいて、共存共栄がなされていた時代です(写真は特に注意書きがないものは、加藤嶺夫「東京懐かしの街角」)。
 こういう人々の息づかいというのは、写真だけ見ていると、なかなか分かり辛いものがありますが、店の人達はお客さんの顔を覚えているし、時には家族構成まで知っていて、誰々さんは最近、顔を見ないけど、どうしてるの? とか、誕生日なの、じゃぁ、おまけしとくよ。とか、そういう会話が少しも変ではなかったのです。料理の仕方とか、保存の仕方とか、ちょっとした家事のアドバイスなんかも、飛び交っていたのです。
若目田幸平「東京のちょっと昔」

上、八百屋・魚屋、下、総菜屋、焼き芋屋
魚屋
和装小物屋
写真は土門拳

 ご近所同士のふれあいも、今日のおかずは何? うちもそうしようかしら。そんな会話がされるものですから、ご近所の晩御飯の内容まで互いに知り合っていた部分もありました。互いに助け合う、融通しあうことも、多くあり、醤油や砂糖が切れると、隣の家に借りに行くということも、ごく日常の世界でした。

 こちらは今はなき渋谷恋文横丁(現、百軒店)。呑み屋街だと思っていたのですが、商店街でも会ったのを写真で知りました。(特に注意書きのない写真は古いカメラ雑誌の投稿写真から転載したものです)

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アサヒグラフ1953.6
 
昭和39年、上から見た恋文横丁           
1964年ころの道玄坂から百軒店に向う通り 当時は奥に2軒の映画館がありました。上の看板が映画館の案内。

左右ともに 加藤嶺夫「東京消えた街角」                       北区東十条
荻窪  すぎなみ学倶楽部
 目黒区下目黒

加藤嶺夫「東京消えた街角
                   北区堀船
東池袋5丁目  
平嶋彰彦「昭和20年東京地図」

板橋専門店会の昭和30年代のCM
Everyday life in bygone days in Tokyo, 1966 昭和東京  10分過ぎくらいに買い物の風景があります。



 
三軒茶屋(毎日新聞)                                      昭和51年渋谷恋文横丁   
加藤嶺夫「東京消えた街角」
こちらは比較的最近
たばこ屋

傘屋のおじさん



森田一朗「あわき夢の街トーキョー」
                                     平林靖敏 「東京まちかど伝説
 こちらは商店でなく税務署。申告の風景だそうです。
アサヒカメラ1954年6月
 右は京都錦町ですが、写真は昔です。今の錦町は観光客ばかりで、珍しいものは多いですが高い。生活という臭いを消しています。このように生活実感に根付いた形の商店街が生き残っている例はそれほど多くはありません。観光化された商店街、ファッション関係が非常に多い商店街も見られます。
新潟 錦市場
   1954.4サン                      写真は浅野喜市「回想昭和20年代〜40年代 昭和の京都」(リンク先の本に同じ画像があるかは確認しておりません)

 スーパーの大規模化が進み始めるのは昭和40年代も後半、本格化するのは昭和50年代です。 大規模化により商店街は急速に衰退し始めます。力の差は歴然でした。商店街の店の売り方が、余計なものまで買わされた、あるいは思っていたものとは違うものを買わされたという感覚を排除し、雨の日でも傘も挿さずに買い物ができる、一つの店で全部、買い物が済まされるというセルフ・サービスの便宜性が、商店街を圧倒して行ったのです。それでも昭和40年代頃は、生鮮品はスーパーは駄目という評価は根強いものがあったために、何とか頑張っていたのですが、スーパーがバイイングパワーを使った仕入を実行する中で、品揃えの点で専門店が負け始め、乗用車の普及により週末に、まとめ買いをする方法が強まってくると、商店街は厳しいものになっていきました。商店街の未来が塞がれる中、息子や娘はサラリーマンになり親の商売を継がなくなり、商店街の自壊は加速していくことになりました。
 便宜性に馴らされた消費者は、ご近所の人々や地域の商店街の人々との会話を喪うことで、買い物がつまらないものになり、 生活情報を他人から得るという方法もなくなり、孤立を深めていくことになったのです。便利だということは恐ろしいことであることを知る機会すら失われたのです。廃墟となった街は多くあります。現在はシャッター通りですが、かつてはこの小鳥の街のような姿を曝していたのです。
イシワタフミアキ撮影「昭和幻影